何の前触れもなく意識が浮上して、はハッと目を覚ました。カーテンが締め切られた薄暗い部屋、いつもの自分の寝室である。何となくホッと息を吐いたあと、腹に力を入れて起き上がった。寝起きだからか、まだ意識はぼんやりしている。深く遠いところから急に引き上げられたような感覚が目の裏に残っていた。

音もなくベッドから降りたは、クローゼットの方へ向かう。昨晩出しておいた、黒いワンピースが目に入る。この諸島で一番腕のいい仕立屋が、西の海の良い生地が入ったと見せてくれた時、一目で気に入って仕立ててもらったものだ。はそれを、ゆっくりと、まるで壊れ物でも扱うかのように手に取った。 最後にこれを着たのはちょうど1年前、着るのは今日で3回目になる。昨日も確認したが、念のためもう一回、糸のほつれや虫食い・シミの類がないかを確認した。

―――うん、大丈夫、

は一度、誰にともなく頷いて、そのワンピースを持ったまま寝室を後にした。


***



ノックをしても返事がないことは分かっているので、ベポは、まるで自分の部屋に入るように、その部屋のドアを開けて中に入っていく。見れば、昨晩から変わらずの本の散乱っぷリで、本たちに囲まれたその真ん中で、部屋の主が寝こけていた。

―――あーあ、キャプテンたらまた床で寝てる・・・

近付くと、昨晩まだ彼が起きていた時となんら変わらないポーズで眠りについているのが見てとれて、ベポは、器用だなあ・と暢気なことを思う。ふと足元を見れば、これまたひとつも手を付けられずに昨晩からそのまま放置されていたのだろう、乾燥して食べられなくなった食事が目に入った。ちゃんと食べてって言ったのに・と、 今さら言ってもどうしようもない愚痴が浮かぶ。夕食に手がついていないということは、昨日のランチから彼は何も食べていないとこになるので、起こしたらたらふく嫌がるまで食べさせよう・とベポは心に決めるのだった。


「キャプテン!起きて!!」


そんなベポの声も、ベポが部屋に入ってきた気配も最初から全部、ローには聴こえていた。がしかし如何せん体からの睡眠欲求が甚だしく、目を覚ます気になれない。ベポに揺さぶられるのを無視して強制的に思考をシャットダウンすることもできるのだが、さてどうしようか。

と、そこへ、ペンギンの声が船内連絡用のスピーカーから漏れてきた。


ベポ、船長はまだ寝てるのか?早く起こしてやってくれ。麦わらが上陸したらしい


***



《ホテル・イートン》は、1階奥のバーから外の庭に出られるような構造になっている。庭といってもそんな大それた規模のものではないが、花壇や生け垣のほか、チェアと小さめのサイドテーブルを3つずつ並べられるぐらいの広さはあった。

は、今日はいつもより念入りに雑草を抜き、花たちに十分な水をやった。その花たちの中から、生前のイートンが好きだったものを3〜4種ほど選び、小さいブーケを作った。そのブーケが切り花として保つように、少し処理をして時間を置いている間、外の空気を吸いながら、 イートンの遺したアコースティックギターの手入れをした。弦を外し、ネックやボディを磨き、ネックのゆがみやボディのキズがないかを確認してから、今度は新しい弦に張り替える。調律をして、鳴りを確認すれば、変わらないまろやかな音色が響いた。ギターを片付けて、今度はピアノの調律をする。 が、こちらはコンスタントに調律していたため、これといった狂いもなく、作業はすぐ終わった。

軽く食事をとってから部屋に戻ったは、さっとシャワーを浴びた後、黒のワンピースに着替えた。U字のネックに、七分の袖、スカートの丈はくるぶしの辺りまである。装飾は特になく、ウエストで少しつまんである以外は、背中にファスナーがあるぐらいの、とてもシンプルなものだ。化粧を手短に仕上げ、 いつもはチェーンを通して首に下げている指輪を、左手の薬指に通した。姿見の前に立てば、1年前から髪が伸びた以外には大して変わらない自分の姿が映った。それに少し苦笑して、部屋を出る。

ブリキのバケツの中に、ブーケと、蝋燭とマッチ、タオルを1枚と、それから、イートンが好きだった銘柄の酒をボトルで1本入れた。それを持って、はホテルを出て行く。玄関に閉店札を掛けるのを、今年は忘れなかった。


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21番GRは、諸島の数あるGRの中でも【無法地帯】と呼ばれる治安の悪い場所である。海軍の目もほとんど届かないので、主に海賊達が跋扈する区域となっているようだ。ローはその一角で腰を下ろし、少し面白くなさそうな顔をしていた。連れてきているクルー達―――ベポ・ペンギン・シャチ・ハクレットの4人は、 そんなローの様子などいさ知らず、他愛のない話で盛り上がっている。

ついさっきまで、怪僧ウルージなる巨体の男とキッド海賊団の仮面の男キラーとやらが近くで諍いを起こしていたのだが、それを元海軍少将のドレークという男が仲裁に入ったことで、騒ぎはぴたりと治まってしまった。その少し前は、別のGRでカポネ・ベッジとジュエリー・ボニー、さらにバジル・ホーキンスを見かけ、 更には、ユースタス・キッドとスクラッチメン・アプーの喧嘩の巻き添えを喰らいそうになった。どこにいてもやはり億越えの賞金首は目立つようで、しかも今この島にはその億越えが自分を含めて11人も集まっていることで尚更話題になっているようだった。その11人が超新星と一括りにされて呼ばれているらしいということを、 つい先程知ったローは、鼻持ちならない気分を感じていた。
懸賞金の額で言えば11人の中でローは5番手だったが、元々懸賞金額にさして興味のないローにとっては、そんなことはどうでもいい。なので、誰がどこで暴れようと、逆に自分がどんな目で見られようと、気にも障らない。のだが。能力云々の話ではなく、個人的な嗜好の話で、 ローは今シャボンディ諸島に上陸している“超新星ども”と自分が一緒くたにされているのが単純に気に入らなかった。

それに、ローの機嫌が悪いのには、もうひとつ理由があった。

ローがこの諸島に上陸して、もう10日ほど経つ。手早くコーティングを済ませて新世界へ入ろうと思えば入れたぐらいの、充分な日数が経っている。しかし、何故そうしなかったのかと言えば、エニエス・ロビーで世界政府に喧嘩を売った麦わらの一味が、おそらくもうすぐこの諸島に辿り着くだろうと踏んでいたからだった。 新世界に入ってしまえば、次はいつどこで顔を合わせるチャンスがあるか知れない。ローは、このシャボンディ諸島で一度、GL前半の海を散々騒がせた話題の男モンキー・D・ルフィに会っておきたかったのだ。それは別に、会って何かを話したいだとか、そういうレベルのことではなく。ただ単にどんな男なのか、 麦わらの一味とはどんな海賊団なのかを、少し見ておきたい。それくらいの、可愛くてささやかな希望だ。

それなのに。今朝上陸しているはずのその一味が、一向に見当たらない。


「麦わら、いないっスねえ・・・」


ローの後ろで、思い出したようにハクレットが言った。彼はハートの海賊団の狙撃手で、クルーの中では一番目が利くので連れてきていたが、その彼の目をもっても見当たらない。どこかもっと別の区域にいるのだろうが、そこまで行って探している時間も、もう無かった。
麦わらを探しがてら散策に出たのは良いが、興味のない輩ばかりが目について、ローはそろそろ我慢の限界だった。同業者や物見の一般人などに下手に神経を逆なでされて“うっかり”何か騒動を起こしてしまう前に、一旦退くことに決めた。


「・・・とりあえず、人間屋へ行くぞ」


そのローの言葉に、クルーの4人は『アイアイ!キャプテン!』と続けた。向かう先は1番GRだ。


***



広くて暗い洞窟のような場所に、は来ていた。ランプが整備されている訳ではなく、頼りになる明かりは無数の蝋燭だけ。ただし、点けたものが消えないうちにまた新しく点けられるので、この場所の蝋燭が全て消えているところをは見たことがなかった。
そこにはだけでなく、他にも何人かいるようだった。皆同様に黒を基調とした服に身を包み、すれ違えば会釈こそすれど、言葉を交わす者はいなかった。

そう、ここは、整然と墓標が立ち並ぶ死者の街、シャボンディ諸島唯一の墓地である。

は、持ってきたバケツに水を汲み、そこにタオルを浸しては、目の前の墓標を丁寧に優しく拭いてゆく。その横顔には、まるで親しい人間と会話をしているかのような、柔らかい微笑みを宿していた。が、同時に、泣いているようにも見えた。




墓標を清め終わったは、ブーケを供え、立てた蝋燭に火を灯した。そうしてようやく、墓標の前に跪き、祈るように目を閉じたのだった。