夜半を過ぎても、今日はローどころか、他の客の一人も現れない。それが寂しいわけでも不都合なわけでもないのだが、は、そういえばこれが自分の日常だったっけ・と思ってしまう自分に、少し涙しそうになっていた。


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イートンがいた2年前のこの日は、確か観光客で満室だった。その前の日も、そうだった。連泊の客もいた。忙しい毎日、たくさんのスタッフ、支えてくれる街の人々。新鮮な魚介類、遠い島から届く香辛料。朝食ビュッフェの用意をし、ランチのオーダーをとり、夜は酒の肴を作った。合間を縫って、ベッドメイキングをし、 客室の点検をし、香油をブレンドし、時たま歌った。満足げに帰ってゆく観光客たち、新世界へ旅立ってゆく海賊たち、それを見送るイートンの笑顔。

もう二度と動くことのないイートンを目の当たりにした時、は一瞬にして自分の中が無になっていくのを感じた。そしてその中に新しく芽生えたのは、ただひたすらな哀しみだった。その時の彼女を動かしていたものはただそれだけだった。しかし彼女は、ただそれだけを原動力に、ひとつの罪を犯してしまった。 その記憶は、今は彼女の奥深くで、誰にも知られることなく眠っている。

彼が亡くなって3ヶ月経った頃から、はホテルを切り盛りするようになった。彼がいた頃と同じようにはできない自分と、時が経つにつれて少しずつ減ってゆく客やスタッフの数。心配してくれたスタッフや街の人々には申し訳ないが、には、それでよかった。彼と始めた、彼の名を冠したホテル。 そんなホテルに彼が居ないのならば、彼の理想を自分一人で追うほどの気概など、にはなかった。最終的にひとりでやっていけるほどに客数は減り、雇っていた従業員には全員に次の働き口を斡旋し、幾ばくかの退職金を支払って辞めてもらったのだった。


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そういった経緯がありながらも、それでもホテルを廃業せずに細々とやっているのは、これも自分の弱さであることを、彼女は自分で分かっている。業績など勿論このところずっと赤字であるが、それでもやっていけているのは、とある金銭的バックアップがあるからで。それに甘んじておきながら、 それ故に“自分の帰るべき場所を失っている”ことも、は身に沁みて分かっている。
全てを捨てて彼の後を追えば楽になれるのだろうか・と、何度も考えた。でもその度に、生前のイートンの言葉に押し留められる。いつ、何の拍子で言われた言葉だったかは、思い返しても分からない。

生き死にっていうのは、自分の意思で決められるものじゃないと、おれは思ってる
どんなに楽しくて幸せでも死ぬ時は死ぬし、どんなに苦しくて辛くても死なないうちは生きるしかない
それは、そう決まってるものなんだ

死なないうちは生きる、それがきっと正しいんだよ


彼の居た場所と自分の居る場所を失ってしまえないその弱さが、今のの全てで、最後の砦だ。

―――それがきっと正しい、か・・・

それならば。私が生きているよりもずっと、彼が生きていた方がずっと、ずっと正しい・と、はそう思わずにはいられない。悔しくて、歯痒くて、でも無力で、苦しかった。


石を瞼に乗せられて
荊を体に巻かれて眠る人
私は、その人の帰りを待っている


やっぱり、穏やかな気持ちではこの日を迎えられなかった。そんなことをうっすら思いながら、湧きだす感情を思うままメロディーに乗せる。歌ができるのはいつもこんな時だ。考えなくても言葉が出てきて、指が動く。思わずグランドピアノの前に座り、はその指をおもむろに鍵盤に乗せた。キーはFだった。


嵐を超えてたどり着いた岸辺で
全てを私にくれた人
それでも私には足りなかった


少しずつ、鍵盤を叩く指の動きが忙しなくなってゆく。音数が増える。奔らないように、逸る気持ちをぐっと抑える。涙を流すぐらいなら、全て音に変えてしまいたかった。


貴方は自分をどこへやってしまったの


自分をこうして、咽び泣く以外に吐露する表現方法があることに、は少なからず救われているのかもしれない。昇華する、と言えば聞こえが良すぎるだろうか。誰かに聴かせられるほど長けた腕ではないにしろ、表現に困らないくらいの腕は持ち合わせていて良かった。などと、どこか冷静な頭で考える。


貴方が居ても居なくても
私はここで生きている


大きな気持ちがはじけたとき、それは言葉にならず、代わりにピアノを叩き弾く力になった。嗚咽を漏らす代わりに、メロディーが口から飛び出してくる。


私は生きることをやめられない
貴方が居ても居なくても―――




寄せては引いていく波のように、音を奏でているうちに気持ちが凪いでくる。それに伴って、ピアノの音もフェードアウトしていった。辺りをもう一度静けさが包んだ時、は穏やかに微笑んでいた。

いくら喚いたところで、彼が帰ってこないことは分かっている。彼が死んでしまったことが正しいのかどうかは知らないが、誰が何をしたところで、それが嘘偽りない現実であることに変わりはない。しかしそれと同様に、が彼と過ごした日々もまた、本当のことで。彼から教わったことも、彼を亡くして知ったことも、 それは全て自分にとって真なのだ。

そしてきっと、ローとの出会いも、今の自分に必要なことだったのかもしれない。にとってイートンだけが“特別”だった、その世界に、ふと現れた“異質”な超新星。いま冷静になって思えば、彼の存在は、私に世界の広さを教えてくれようとしたのかもしれない。確かに、今までが経験してきたことは全て、 にとっては真だ。しかし、それが全ての真ではないのだ。この広い世界はまだまだの知らないことで満ち溢れている。この大きな世界の中にいながら、ひとりだけが“特別”だなんて、誰が決めたのだ・と大きな声に言われているような気がした。
今夜は、彼はやって来なかった。もしかしたら、もう二度と会うことはないかもしれない。もしあの日マスターがこのホテルを紹介しなければ、会うはずもなかったかもしれない。そう思うと、逆にローと出会ったことが必然であったような気がしてくるから不思議だ。『かもしれない』の域を出ないにしても、にとってはそれで充分、 ローとの出会いを咀嚼し嚥下しきれるだけの理由となっていた。

―――貴方はもういないけど、少しは成長してるかな、ねえイートン・・・

彼を恋しいと思わないと言えば嘘になる。会いたくないと言えば虚栄になる。それでも、そう思えたことがには大きな進歩だった。

それがきっと正しいんだよ


イートンの優しい声が聞こえた気がした。