明け方に船へ戻ったローを出迎えたのはペンギンだった。出迎えたといっても、ローの部屋の前で寝こけていたのだが。冷静なときは頼りになる奴だが、こういうスイッチが切れたようにどこででも寝てしまうところは、北の海にいた頃、ハートの海賊団を結成する以前から大して変わっていないな・と、ローは口角を少し上げた。 彼のそんな様子に、《ホテル・イートン》から持ち帰ってしまったもやもやがスッと影を潜めていくことなど堂々と棚に上げ、ローは容赦なく、その頭に己の踵を振り下ろす。


「っ〜・・・てェ〜!くっそ、もっと優しく起こしてくれてもいいだろ」
「なんだ、今のお前なら避けられると思ったんだが、鈍ったかペンギン」


蹴り起こされたペンギンがローを見上げる。人の悪そうな笑みを浮かべた幼馴染に、こういうところは昔から変わっていない・と、ペンギンもペンギンでひとりごちた。


「で、何の用だ」


自室へ入りながら、ローはペンギンに訊ねた。寝こけていたところを見れば大した用事でもなさそうだが・と続けるのも忘れない。ローの後に続くペンギンは、まだ痛むのか、踵落としを喰らった頭のてっぺんをさすっている。扉をきっちりと閉めたペンギンが、ローに向き直って答えた。


「何って、コーティングの話。まあ確かに急ぎの話じゃないが、これが面白い展開なんだよ。腕の良いコーティング屋がいると訊いて、昼間そいつの拠点らしいバーに行ってきたんだが、訊けばここ半年ぐらいは消息が掴めないってバッサリ切られてな」
「・・・死んでるんじゃねェのか」


それのどこが面白いんだ・と、ローの目が言っているのは華麗にスルーして、ペンギンは続ける。


「それがだ。そいつの話を聞き出してるうちに、どんどん普通の職人じゃないレベルの話になってきて。最終的に、そこの女が言ったんだ・・・『まあ、レイリーのことだから、そのうち姿を現すわよ』、ってな」
「・・・・・・おい、まさか」


レイリーという名には、さすがのローも目を見開く。どこかで聞いたことがある、とか、そういうレベルの話ではない。大海賊時代の海賊でレイリーを知らない奴なんていないはずだ。


「そう、そのまさかだ。《コーティング屋のレイ》で聞いてたから予想もしてなかったが、そいつはどうやら、冥王シルバーズ・レイリーのことらしい」


冥王、シルバーズ・レイリー。その男はかつて、偉大なる航路を制し、ひとつなぎの大秘宝を手にした唯一の海賊団、ゴールド・ロジャー率いるロジャー海賊団の副船長だった。その海賊団が解散し、彼の処刑とともに幕を開けた大海賊時代の最中、 名前だけが独り歩きして生きているか死んでいるかすら定かではないとされている。彼、レイリーもまた、伝説の男なのである。そんな男が、ここシャボンディ諸島でひっそりとコーティング職人をしていようとは、それは誰も予想だにしないことであろう。

この世界中の海賊が羨望してやまない、今は無き海賊団の次席が、すぐ傍にいる。ローは、背筋が粟立つのを感じた。

レイリーがコーティング職人をしているというだけで上等なネタだ。彼ならば、そのネームバリューだけでも十分信頼できるコーティングを施してくれることは間違いない。むしろ、彼よりも腕の立つ職人が居ることすら想像できないぐらいである。ローは、徹底的にこの島を洗い出してでもレイリーの消息を掴むべきだな・ と踏んでいた。


「・・・そりゃあ確かに、面白ェな」
「いやいや、まだだぜ船長、面白いのはここからだ」
「どういうことだ?」


勿体ぶるペンギンに眉根を寄せるローだったが、直後投下されたペンギンの爆弾発言に、彼はようやく、ペンギンがどうしてローの部屋の前で待っていたのかを悟ることになる。


「そのレイリーの消息だが、アンタが弁当箱を届けに行ってる間ベポと嗅ぎまわって、ようやく掴んだぜ。どういう経緯かは知らないが、明後日、レイリーは1番GRの人間屋で競りにかけられるらしい」


さしものローも、呆気にとられた。というよりは、そのペンギンの情報を理解するのに幾ばくかの時間がかかった、というべきだろうか。それは本当であればとても貴重な情報である反面、内容が内容なだけに、子どもでも引っ掛からないような冗談にも聞こえる。
人間屋というのは、闇ルートで行われる奴隷売買の要となる場所であり、そこで売られるモノの行く末は奴隷である。良くても人間貴族の奴隷、最悪の場合は天竜人の奴隷だ。暗黙の了解で、滅多に仕入れられない人魚などが高レート、どこにでもいるような人間は安い値段で取引されるようになっており、 その“商品”の出所は知れない場合が多い。が、要するに、どこかで闇ルートに落とされた人間などが奴隷になるためのファーストステップもといワーストステップ、それが人間屋である。
しかし、そこで売られるためには少なからず闇ルートに足を突っ込む必要があるわけで、さらにそこから誰かに捕えられ、そこまで流通させられる必要がある。果たして、伝説の男シルバーズ・レイリーが、そこまでの器を持ち合わせているのだろうか。


「・・・ペンギン、それは何の冗談だ」
「冗談だ、と、おれも最初は思った。が、どうにも本当らしくてなあ・・・どうやら同じ情報が、海軍本部にも流れているらしい」


『というか、海兵を絞め上げて吐かせたんだがな』と、声のトーンを落としてペンギンが言う。長年の付き合いで、ペンギンがこういう局面で冗談を言うような性分ではないことを知っているからこそ、ローは尚更、信じられないという表情になった。

だがしかし、最高に面白い情報だ。


「生きていればそれなりに老いぼれてるだろう、とはいっても、何せシルバーズ・レイリーだ。売って売れないわけはねェだろうな。・・・人間屋にはココにいる間に一度行ってみたいと思ってたところだ。良い機会どころか、またとない機会じゃねェか」
「アンタなら、そう言うと思ったよ。朝全員の前でいきなり話すネタじゃなかったろ?」
「ああ、確かにな」
「おれとベポは事情を知ってる。ってことで、連れてってくれるだろ?船長様」


船長室の重い扉を開けながら、語尾にハートマークでも付きそうな勢いで白々しく問いかけるペンギンに、ローは至極楽しそうな顔で『考えといてやるよ』と答えたのだった。


***



ローが使った部屋を早々に片して仮眠をとっていたの元へ酒場のマスターが転がり込んできたのは、いつもならばが朝食をとっている時間だった。声を出す前からの名前を大いに叫んでいたほどの彼なので、その要件ももちろんには筒抜けではあったのだが、念のため聞いてみたところ。


「レイさんが明日、人間屋で売られちまうって話題で、持ちきりだ・・・!」


案の定、そういうことだった。通常の人間が売られるのであればそれは一大事なのだろうが、彼となれば話は別だ。も良く知る彼が、そうやすやすと奴隷になり下がるわけなどない。『レイさんなら大丈夫よ、強いもの』と伝え、ダメ押しで『だって、私をここまで鍛え上げてくれた人よ』と言えば、不安がっていたマスターも少し明るい表情になった。それに、彼の強さもさることながら、 こういう良からぬことに首を突っ込んでいるときの彼は、きっと何かしら企んでいることがある―――と、彼とはそれなりに長い付き合いのには分かっていた。

幼い頃、父親に連れられてシャボンディ諸島を初めて訪れたとき以来、この島での生き方をに教え続けてくれる恩師。それが彼だった。どういう経緯で彼と父とが出会ったかは知らないが、二人はそういえば随分と仲が良かったなあ・と、思い出す。 ここしばらく彼とは会っていないが、健在だろうか。どことなく懐かしい気持ちに浸っていると、それが伝播したのか、マスターもまた穏やかな笑みになる。ちなみに、彼の次にの面倒をよく見てくれているのは、おそらくこのマスターである。

と、そこでマスターが、思い出したように訊ねてきた。


「そう言えば、あの大物には何もされなかったか?」


彼のその言葉は、単純にの身を案じて発されたものであると、には分かっている。女一人の店だからとなめられて、海賊に因縁つけられたり支払いを踏み倒されたり下衆な男に襲われかけたりしたことが、過去に少なからずあるのだ。『レイさんの愛弟子だから腕っ節には心配しとらんが、それでも女の子だからなあ』と、 続くマスターの言葉がそれを裏付けている。久しぶりの客が海賊で、しかも大物ルーキーだったというのは、マスターは自分がこのホテルを紹介してしまった手前、尚更何かあったらただじゃすまないと感じているようだった。


「大丈夫、お代はちゃんと戴いたし、トラブルも無かったわよ」
「そうか、良かった。実は一昨日わしの店に来たんだよ。で、良いホテルはないかって訊かれたもんだから、思わずこのホテルを教えちまって。その時はの助けになればとしか思ってなかったが、よくよく考えりゃ2億の首だからなあ」


『まあでも、何もなかったようで良かった』と、マスターはホッと息を吐いていた。自分を気遣う彼のその気持ちにありがたいと思いつつも、は複雑な心境だった。としては、ローの来店は、最早“何もなかった”で片付けられるようなものではなくなっていたからだ。

昨夜、ローを部屋に送り届けた後、は少なからず動揺し、弱気になっていた。いくら彼が根無し草といっても、いくら彼の声が聴こえないといっても、さすがに喋りすぎたかもしれない。その後悔はローを思ってのことではなく、自分の精神状態を鑑みてのことだ。うまく言い表せないが、ローのような人間と出会ったことによって、 の中で何かのリミッターが外れていくような、そんな感覚を、は昨夜ようやっと認識していた。


「でも、そうね・・・・・・」


ぽつり呟いたに、マスターも耳を傾ける。は、最後の最後までそれを言うかどうか迷っていたが、話し相手がマスターだということが背中を押したようで、ゆっくりと言葉を選んで話し始めた。


「最初、彼の来店に気付けなかったの。昨日もそう。それに、・・・何だか思い当たる節が色々あってうまく言えないんだけど・・・・・・私、彼の声は、聴こえないみたい」


一瞬だが、マスターが息を呑んだのが分かった。が彼を見やれば、驚いたような、気遣わしげな視線とぶつかる。彼にはこの先の話の展開が見えているのだ。は苦笑して続けた。


「・・・・・・あんな人、イートン以来で。少しぎこちない接客になっちゃったかも」


はそう言って笑ったが、その笑顔の裏の痛みが伝わってくるようで、彼は神妙に『そうか・・・』としか言えなかった。




それからしばらく当たり障りのない世間話をして、マスターは帰って行った。再びひとりになり、は、物思いに耽る。

何の前触れもなくの前に現れたロー。それが別にこのタイミングでなければ、もしかしたらの心はこんなに騒がなかったかもしれない。彼は、かつてが愛したイートンと同様に“異質”な存在であり、そして明日は、そのイートンの命日である。偶然か、それともこういう星の運命なのかは知れないが、 そのせいでは想像以上に消耗していた。ローと接していると、イートンを思い出さずにはいられない。そうしてイートンを想えば、どこかでローの影がちらついた。考えれば考えるほど、リカの心は消耗するばかりだ。

―――そういえば、レイさんも明日だったっけ

考え出したらキリがなく、更に言えばローのことまで考えている自分が何となく癪で、無理やりは脳内の話題を変えた。明日のイートンの命日に、彼は売られる予定であるらしい。昨年は彼と一緒に行った墓参りだったが、今年はどうだろうか。生前のイートンと仲が良かった人なら沢山いるし、その中にはにも良くしてくれていた人もいるのだが、なんとなく、はその人達とイートンを訪れるのが嫌だった。そう、例に挙げるなら、 先程のマスターも然り、だ。今でもよく世話になっているし、とても愛すべき人達ではあるのだが、の中でそれとこれとは別の話なのだ。逆に、の知り合いには、彼を除けばほとんどイートンと親交のある者はいなかった。彼の馴染みのシャクヤクならば少しは、とも思ったが、彼女とイートンの間には、 が付き合ってもらうのは悪いな・と感じてしまうくらいの距離があった。

―――レイさんが無理なら、ひとりで行くしかない、か・・・

が、そこに心細さも心許なさも見出せないのは、やはり短くはない時が経ったからなのだろう。それが有難いようで淋しいようで・・・また色々な想いがぶり返しそうになって、は、そんな落ち着きない心持ちを封じ込めるように、もう一度眠りに就くべく目を閉じるのだった。