に見送られホテルを出たローは、自船に向けて足早に歩きながら、辺りの気配を慎重に探っていた。彼を探すその二人組がクルーなら、彼としては入れ違いになる前に見つかってやっておきたいところだし、厄介事であるならば、船に持ち帰る前に潰しておきたかった。

数GR先までしばらく歩けば、つなぎではなく私服姿の、トレードマークすら身につけていないペンギンとシャチがと遠目に見えた。向こうも気がついたようで、パッと駆け出してくる。


「あー、やっと見つけた!!せn・・・・・・」
「おい、声がでかいぞシャチ!」


そんなやり取りをしながらも一瞬でローとの距離を縮めた二人に、ローは怪訝そうに声をかけた。


「・・・・お前ら、そんな格好で何してやがる」
「いや、えと、ちょ、ちょっとこっちへ!」


すかさず問うてくる船長にすぐさま答えたい気持ちを抑えつつ、二人は人目を忍んでローを細い路地へ連れ込んだ。船長が無事に見つかった以上、もう心配事は殆どなくなったも同然だが、念のため、といったところだろうか。改めてローに向き直れば、こちとら必死で探していたというのに 探されていた張本人が涼しい顔で仁王立ちしているので、肩すかしを喰らったような、安心して脱力したような、なんとも言えない気持がペンギンとシャチの頭を掠める。


「船長を探してたんスよ!朝になっても戻ってないし、ここシャボンディだし今は億越えもわんさかいるし海軍本部の駐屯地もあるって言うし、何かあったんじゃって心配で‥‥!」
「いつもの格好で探しに出かけたらそれこそ騒ぎになりそうだと思ったんで着替えたんですわざわざ、っていうか一体どこ行ってたんですか連絡も寄越さないで!」
「ああっ!ちなみにベポも超心配してましたからね!泣くほど!目立つから連れてきてないんスけど!てかおれらもそろそろ泣くとこだったっスから!!」


言いたいことが山ほどあってまとめきれないけど言わないではいられない・とでもいうような二人のまくし立てを、ローは黙って聞いていた。今回は完全に自分に非があることもあり、いつものように適当には扱えない。二人が一通りの言い分を吐き出して一呼吸置いたところで、ローは口を開いた。


「分かってる、連絡を怠ったのは悪かった」


投下された素直な謝罪に、ペンギンとシャチはまたも肩透かしだった。なんだ、具合でも悪いんじゃないだろうか・と、失礼な疑問すら湧くほどに。しかし彼がこうやって謝るのは、彼に非があることながらも彼にさえ予想できなかったことが起こったときであると、二人は知っている。 とりあえず、事の次第を聞かないでは今夜は眠れないな・と、ペンギンは薄ぼんやり思った。そんなペンギンを尻目に、幼いシャチはまだまだ噛みつこうとしている。


「っ〜・・・!本当っスよ!てか船長、どこで何してたんスか!」
「まあ、ヤボ用・・・・・・・」


何してたもなにも寝こけていた、などとは絶対言いたくないのか、適当な言葉で濁そうとしたローだったが、ふとそこで言葉を切ってしまった。取り残されたクルーの二人は不思議そうな顔をしている。

―――若い男性が二人、おれを探していた。それはおそらくこの二人で間違いはない。


「・・・・お前ら、わざわざ着替えてベポも置いてきておいて、おれの名前を出して探してたのか?」
「えっ、と、そうできりゃあ良かったんスけど、コレでむやみに船長の名前出して訊いたって怪しまれるだけっスから」
「船長が昨日酒場で買った女には名前出して訊きましたけど。そこで消息掴めなくなってからはサッパリで、とりあえず船長の行きそうなところを目視と気配で探してたぐらいです。・・・それがどうかしましたか?」


こちらの質問に答えてもらうはずだったのに、急に全く別の角度からの質問で返されて、二人はよく分からないながらも素直に答える。勢いの腰を折られたせいで、さすがのシャチも大人しくならざるを得なかった。ローのマイペースなことは今に始まったことではないのだが、 なんだかなあ・・・とシャチは口を尖らせる。ペンギンはといえば、何かを考え始めたローの様子を、注意深く見ていた。


「・・・・・・今朝、78番GRへは行ったか?」
「いや、まだですが。10番台のGRはもう虱も全部潰したんで、次に行くならホテル街かなと思いこっちに」
「おれを探しに出てきたのはお前らだけか?」
「買出し組が市場をあたってるけど、こっちの方はおれらだけだよなー、ペンギン」


ペンギンが頷き、『どうかしたんスか?船長』と続けてシャチが言うが、思考を巡らせ始めたローの耳には届かなかった。
そう、これは、ただの一般人が迷子を探しているわけとは違うのだ。緊迫しているシャボンディ諸島のなか、自分たちの船長が消息不明かもしれないという危機に対して、二人は十分慎重に対応していた。

―――しかし、それならば、どうしてただの若い男二人がおれを探していると、あの女は分かったのか。どうして“おれ”が探されていると、分かったのだろうか。


「ていうか、キャプテンそれ、何持ってんスか?」


おもむろにそう言ったシャチの言葉に、ローは、愛刀の鍔に引っ掛けてある包みの存在をようやく思い出した。自身が下げているそれに目をやったまま、問いかけに答えるわけでもなく一人考えに耽る船長に、クルーの二人は顔を見合わせて首を傾げるのだった。


***



その夜、ローは再び《ホテル・イートン》のロビーに立っていた。昨日はあんなに閑散としていたのに、今日は何故か盛況で、奥のバーの辺りが賑やかだ。時間帯の問題だろうか・と取るに足らないことを思い浮かべながら、こういう人の多い場でいるのは単純に性に合わないため、引き返そうかと考える。

昼間、持ち帰ったホーローのランチボックスをキッチン係のウォーラスに『中身、解析しておけ。問題なければ食べていい』と丸投げした結果、問題があるどころかこれは見事な弁当だ・と興奮した彼が、普段は一切そんなこと言わないくせに『借りたランチボックスはちゃんと返すのが掟だ!』とか何とか言い出したおかげで、 ローにしてみればどうでもよい理由で夕食後に船を追い出されたのは記憶に新しい。が、長い間ハートの海賊団のキッチンで腕を奮っている年長者の彼が、滅多に他人の料理を褒めないことは知っているローなので、邪険にもできず、結局ホテルまで足を運んだ次第である・・・・・・というのは立派な口実だ。

そもそもローとしては、このホテルやランチボックスが重要なのではなく、気になるのは昨晩の女のことだけだった。見知らぬホテルで熟睡してしまった自分、そのせいで緊迫した状況に置かれたクルー達、なのに、何事もなかった。今朝ここで飲んだ水も、あの女の調理したものも、何も問題はなかった。 昨晩から疑いつつも疑い切れなかったローにとって、これらのことは十分にこのホテルを安全だとする理由になっていた。そう、いつもならば、それだけで終わることなのだが。だが、引っ掛かるのは、今朝の女とのやり取りだ。ホテルへ直接姿を現したわけでもないペンギンとシャチが、 騒がしく探していたわけでもないのにどうして、自分を探していたと、分かったのだろうか。彼女の言い方を思い返してみても、“外で偶然耳に”しただけにしては、迷いなく探されているのはハートの海賊団の船長だと言い切っていた辺りが、どうしてもローには気になっていた。 あの女の裏にどんなカラクリあるのか、果たしてそれは今後ハートの海賊団にとっての脅威になりうるのだろうか・・・という危機感からではなく、女が持つ何かに惹きつけられている、そんな感覚で。

―――・・・しかし、・・・めんどくせえ・・・・・・

バーへ少し近づけば、ゆっくりと酒を飲んで各々の会話を楽しんでいる、海賊というよりは地元の人間たちが目に映る。同業者同士ならばまだやりやすいのだが、ローカルの人間が多い場所に居るのは更に性に合わない。今日は出直すか・と踵を返そうとしたローの耳に、ふいにピアノの音色と歌声が届いた。

見やれば、彼女が弾き語っている。それが何の曲かは分からないが、ローは予想外のことに、うっかり彼女を注視してしまった。頭の中で、そのためのピアノか・などと、脈絡のないことがぐるぐる回る。何となく、昨晩から自分の調子が狂っていることを、ローは今になってやっと理解した。

そうやって足を止めてしまったが最後、わざわざ来たのに何もせずに帰るのも億劫になったローは、少し逡巡はしたが、バーの方へ足を向けることに決めた。カウンターへ近付くにつれて、ローはあることに気付く。先程から注文を受けては酒を出して忙しくしている人間が、どこかで見た顔だと思っていたら、 ローが昨日の晩にふらっと立ち寄った酒場のマスターだったのだ。と、ローが無意識に見つめていたからか、カウンターの向こうのマスターもローに気付いたようだった。頼んでもいないのだが、何故かカウンターから出て、彼はローの元までやって来た。


「いらっしゃい、大物さん。なんだ、アンタ今日来るんだったのか?今日は見ての通りちょっとばかし賑やかな日だが・・・まあ座んな」


昨日も来たと訂正するのも面倒なので無言でスルーし、ローは、人懐っこい笑みに勧められるまま近くのテーブルへついた。そこからは、歌うの横顔がよく見えた。


「あの子がここのホテルをやってるだ、泊ってくんなら後で声かけてみな」


というのか・と、そこで初めて知った女の名前をローは漠然と頭にインプットする。


「普段は静かな良いホテルだが、月に何回か、こうやってがこの辺りの気心の知れた連中みんなを招いてくれることがあってな。酒の肴に、拙いもんだけどって、毎回ああやって少し歌ってくれるんだ。みんなそれが楽しみで、ここへ来てる。なかなか良い歌うたいだろ?」


言いながら、人の良さそうな顔で笑うマスター。だが彼の言う通り、なかなか悪くない、むしろ素人にしては上出来の歌だった。どことなく心の中にするりと入り込んでくるような、高くもなく低くもない声音。その道のプロとは比べ物にならないが、自然と体をほぐしてゆくようなピアノの旋律。どうやらラブソングのようだ。 ローが『ああ』とだけ答えれば、それで気を良くしたのだろう、マスターは嬉しそうに笑った。


「何にする?最初の1本はおれの奢りだ」




がローに気づいたのは、その一曲を弾き終えて、少し休憩でもしようかとマスターを目で追った時だった。彼が珍しい北の海のボトルを運んだ先に、ローが居た。は驚いて、とっさに立ち上がり、ローのもとへ駆けていく。普段は曲の途中で誰かが来ても気付くのだが、やっぱり彼のことは気付けない。 どうしてだろう、いつからいたのだろう・・・今日は地元の人たちを招く日だったが、表に貸し切り札の類は出していなかったので、誰が来てもおかしくはないといえばそうなのだが。そんなことを思いながらローのテーブルに近付けば、彼もに気付いたようで、相変わらずの隈を下げた双眸を彼女に向けた。


「いらっしゃいませ、トラファルガー様。昨日に重ねて、すぐにご対応できずに申し訳ございません」
「別に、気にしてねェよ」


頭を深く下げたに、微塵も気にしていないローは素直にそう答えながら、が“気付けなかったこと”をやけに気にしているような空気を感じ取った。それは、彼女のホテルマンとしてのプライドからくるものなのか、それとも・・・


「ん?アンタ、昨日も来てたのか?」
「ええ、昨日彼が来てくれなかったら、2週間連続でノーゲストの記録更新するところだったのよ、マスター」


不意に掛けられた言葉に思考回路を断たれたローが胡乱げにマスターを見る。そんなローを知ってか知らずか、がローの代わりに、微笑みながら答えた。『それは笑えんぞ・・・』と嘆くマスターを尻目に、はローに向き直る。


「ご宿泊でよろしいですか?」
「ああ」
「すぐにお部屋へご案内いたしましょうか?」
「・・・・いや、このボトルが空いてからでいい。それより、」


ローはそこで言葉を切り、先程自船のコックに押しつけられたソレをテーブルの真ん中へ置いた。ソレというのは今朝が包んだそのもので、故にもソレが何であるかはすぐに理解する。


「美味かった。と、うちのコックが言っていた。生憎おれは食ってねェが・・・相当だったんだろう、借りたモンぐらいちゃんと返してこいと船から叩き出された」


めんどくせえ・と心の声が書かれた顔で言うローに、は、驚いてはいるがそれ以上に料理を褒められたことが嬉しいといった表情で、背筋を伸ばす。


「そんな、勿体ないお言葉・・・ありがとうございます。お料理がコック様のお口に合ったことも嬉しいですし、こうして船長様直々にご足労くださってお返しいただけるなんて、恐縮でございます」


『お心遣い、ありがとうございます』と、は深々と礼をした。貰った弁当は楽しんで食べたわけではなく、徹底的に解析して毒素や薬品の類が検出されないと分かってから、しかもコックだけが食べたので、ローとしては礼を言われる筋合いがない・といったところである。 が、そんな自分の様子を気にすることもなくは嬉しそうで、ローはそこで、彼女やこのホテルは安全なんだろうと改めて思い直す。としては、ローの疑いも薄々感じつつも、最初から裏などなく、彼女なりにできる限りのもてなしをしていたのだが。

そんなローの内心などつゆ知らず、は、自分の料理を誰かに喜んでもらえたことを純粋に嬉しく、そして面倒だと思いながらも律儀に足を運んでくれたローのことを、純粋にありがたいと思っていた。ひとりで経営を始めて2年になるが、こうして宿泊客に、しかもこんな大物のルーキーに、ここまで近付いて話したことは数えるほどもない。 物理的にではなく、精神的な距離という意味で、だが。更に言えば、今回の客トラファルガー・ローが彼女にとっては数少ない“異質”な存在であることも、を少なからず冷静じゃなくさせていた。かつて同じ食卓を囲んだ、もうひとりの“異質”な男の顔がの脳裏に浮かぶ。

―――もう、2年になるのね・・・・・・


「・・・・・・おい、」


の纏う気配が少し変化したことを、ローは見逃さなかった。それに思わず声を掛けてしまったのだが、後に続く言葉が見つからない。が、『はい、』とローを見やる。続きを促す視線に一瞬何を言うべきか考えたが、結局言うに事欠いて、ローはため息とともにぽつりと吐いた。


「・・・歌え、何でもいい」


***



の招待客が全員帰ってしまうまでに、結局ローは2本のボトルを空けていた。


「お待たせいたしました、お部屋までご案内いたしましょう」


2本目の最後の一口を飲み終えたのを見計らって、昨日と同じようにランプオイルと鍵を手にしたが声を掛けてきた。そのタイミングはまさにちょうど良かったのだが、ローはそんなをじっと見つめて席を立とうとしない。いや、を見つめてというよりは、正確にはの持っているランプオイルの瓶を、ローは見つめていた。 そしてそれから視線を逸らさないまま、言った。


「そのオイル、お前が精製してるのか?」


ローの突然の質問に、は一瞬目をしばたいたが、すぐにいつもの微笑みで『いえ、』と答えた。


「オイル自体は既製品です。が、ブレンドは当ホテルのオリジナルレシピで行っております。香りは全部で4種類ほどございまして、もちろんブレンド前のものもご用意できますが・・・・・・もしかして、昨日の香りはお気に召しませんでしたか?」
「いや、そうじゃねェ」


心配そうに訊いてくるに、ローは即座に否定して答えた。最初こそ不審に思ったが、冷静になって嗅いでみれば、あれは心を落ち着かせる良い香りだった。自分が思わず眠り込んでしまったのも、大方その香りのせいではないかとローは見当を付けていた。睡眠薬が仕込まれてあるだとかそういう直接的な話ではない。 何らかの効果をもつ香りの薬草をブレンドし、その香りを吸わせることで、例えば深い睡眠へ導いたり、例えば明るい気分にさせたりすることができる。西の海の療法で、そのような香りを使った精神的なヒーリングを行っているという文献を、ローは読んだことがあった。おそらくそれと同じ類のものだろう。

そこまで思い当ってからは早かった。


「昨日の香りはよく効いた。あれは睡眠を促す効果がある、違うか?」
「はい、おっしゃる通りです。脳に心身の疲れを気付かせることで、その人に今一番必要な眠りへ誘う効果があるものです」
「4種類あると言ったな。全て見せてくれ。あと、どういう組成で出来ているのかが知りたい」
「はい、かしこまりました。せっかくですので、本日の香りは是非お客様がお選びくださいませ。組成についてはレシピがございますが、よろしければ写しをお作りいたしましょうか。明朝にはお渡しできますが」
「写しはいらねェ、一度見りゃ覚える」
「かしこまりました、今お持ちいたしますね」


はそう言うや否や、持っていた瓶をまずテーブルに置き、残りの3種類を持ってくるべく飾棚の方へ駆けて行った。ローが外科医と呼ばれていることは噂で聞いてはいたものの、実際にこういうやり取りをすると真実味が増すもので。一人の宿泊客として接しているとつい忘れてしまいそうになるが、 そう言えば彼は海賊を冠した悪名高い医者だった、と思い当る。おそらく医術に関することは全部吸収してしまうような人なんだろうと見当を付けたは、本当に医者なんだなあ・と頭の片隅で思いながら、目当ての瓶をパッと手に取り、デスクからレシピと効能を書き記した小さなよれよれのノートを取り出した。

と、そのノートの表紙に書かれた字を見て、思わずは足を止めてしまった。今日は随分と、彼を思い出す。命日が近いからだろうか。にとって、愛しく、懐かしいその字体。思えばこのノートも、 レシピを覚えてしまっているが手に取るのは随分と久しぶりだった。ワイラー・イートン、と、表紙の右下にしたためられたサインに、ドクンと心臓が一際大きな音を立てる。



、知ってるか、この香りは―――・・・





「おい、宿屋」


思いのほか近くから聞こえた声に、はハッと我に返った。その目に、黄色地に黒で描かれたハートの海賊団のジョリーロジャーが映る。いつの間にか、ローが目の前に立っていた。


「どうかしたのか」


その声が明らかに自分に向けられていることを、は分かっていた。けれど、ノートから目を逸らせなかったせいで、一拍、反応が遅れる。ローはその様子を、黙って見守っていた。


「・・・いえ、少し、昔のことを思い出しまして」


極力、震えないように、明るく聞こえるように、は声を絞り出した。想像した通りの声が出せたので、そのまま続ける。もう人に話せるぐらいの時間は経っただろう、彼がゆく川の流れのように一所にとどまらない海賊だからこそ、話しても差し障りはないだろう。と、ぼんやりと考えながら。


「この、ワイラー・イートンという男が、このホテルの以前の経営者でした。香りのあるオイルをブレンドしてその香りを楽しんでいただくことで、お客さまにより寛いでもらおう、というのは、彼のアイデアで。とても良い経営者だったのですが・・・2年前に、不慮の事故で亡くなりました」
「・・・死因は何だ」
「本当に、残念な話なのですが、・・・虫の居所の悪い天竜人が乱発した銃の流れ弾が頭部に直撃、即死でした。神も仏も居ないのかと思ってしまうくらい、理不尽であっけない最期でした」


男のサインをなぞりながら口を開けば、まるで用意していたかのように言葉が流れ出た。どうして今、この男相手に、こんな話をしているのか、は自分でもよく分かっていない。しかし幸いだったのは、意外にもローが聞く姿勢をとってくれていることと、これだけ近くにいてもにはローが“聴こえない”ことだった。はただ、この男を前にして、何故か、話さざるを得なかった。否、彼女がずっと誰かに聞いてほしかったことの受け皿として、偶然いま、彼が選ばれただけかもしれない。

イートンは、が知る誰よりも、人を愛し、人に愛される人だった。そのホスピタリティが憧れだった。もっと彼のことを、このホテルを訪れる人々に、世界中の人々に、知ってもらいたかった。―――できることなら、生きている彼と触れ合ってほしかった。


「あんなに簡単に、人は、死んでしまうものなのでしょうか。私はその場にいたわけではないので、詳しい状況は分からないのですが・・・・・・たった1つの小さな鉛玉が頭に当たっただけで、人は・・・・・・」
「・・・当たり所が悪ければ死ぬだろうな。狙われていようがいまいが、当たった場所が頭であろうが足であろうが、それは変わらねェ。特に拳銃ってのは、そういう武器だ」
「そう、ですか・・・ふふ、やっぱり、貴方は歴としたドクターなのですね」


涙を流さずに話せるほどには、やはり時間は経っていたようで。悲しみも憤りも、今となっては遠い波の音のように感じられる。は、自分が意外にも落ち着いた気持ちであることに安堵した。これならばおそらく、明後日の命日も、穏やかに迎えられるはずだ。


「・・・・・・もうすぐ、彼の命日なんです。今、とても久しぶりにこのノートを手に取ったら、懐かしくて、色々思い出してしまいまして・・・。すみません、こんな辛気臭い話で」


そう言って、はローの目を見た。その相貌はまっすぐに彼女を見ていたが、相変わらず、彼の考えは読めなかった。そのことにホッとして、は、ノートと3本の瓶を両手で抱え直した。


「よろしければ、全てお部屋へお持ちいたしましょう。昨日と同じお部屋をご用意しております。今夜も、ごゆっくりお寛ぎいただければ幸いです」


ローの目を見据えたままいつものように微笑んだに、ローは、『ああ』と頷いた。それきり、ローを部屋へと案内し、その部屋の扉が閉まるまで、二人は一言も交わさなかった。


***



夜を眠らずに過ごすことは得意なローだが、眠れない夜がこんなにも長いということはどうやら今まで知らなかったようだ・と、古びたノートを片手にローは漠然と思っていた。

香油のブレンドレシピを全て頭に叩き込みながら、4種のそれを一通り試した(実に興味深い内容だった)。刀のメンテナンスをして、シャワーも浴びた。もう他にすることが無くなってやっと、ローは、頭の隅でずっとのことを考えていたことに気付く。

彼女が語ったワイラー・イートンという男の情報は、あまりに少なかったにもかかわらず、ずっしりとした重みを伴ってローの脳裏に残っていた。それが何故かは、の口から明白には出なかったが、何となくローには分かっていた。おそらくイートンという男は、2年前までのにとって、とても重要な人物―――肉親か恋人、 もしくは、死が二人を別つまでと誓い合った夫―――だったのだろう。彼女が語る声色や仕草を見ていると自明で、どちらかといえば、後者を想う遺されたもの特有のそれだった。人が死ぬことに、海賊という立場を超えて誰よりも近い場所にいる自分にとって、そこまで推測することは容易いもので。 だからといって、自分が彼女に何かできるかと言われればそうではないことも、更に言えば、彼女がそれを望んでいないことも、ローはよく分かっていた。
なのに、こうも気に掛かるのはなぜだろう。というよりも、何がこうも気に掛っているのだろう。何となくタイミングが掴めずに訊きそびれている今朝からの引っ掛かりも然り。先程、このノートを手に取るや否や全ての挙動を止めてしまった彼女に、どうしても『どうかしたのか』と問わずにはいられなかったことも然り。 ローは、久しぶりに感じるもやもやした気持ちを、持て余していた。