ホテルの玄関扉がノックされたのは、シャワーを浴びて着替えたが、ロビーの椅子に座って苦心しながら手に包帯を巻いているときだった。急に聞こえたそれに、驚いたは包帯を取り落してしまう。表には閉店札を掛けてあるので、まず宿泊客ではないだろうが、扉の向こうの気配はよく知る人のものでもない。むしろ、 そこに人が居るのか居ないのかすら判別しかねるほどの、微かな気配。は、自分をこんな感覚にさせる人物を、今は一人しか思い浮かべられなかった。

せっかく途中まで巻いたその包帯を外し、落としたものも拾い上げて、は扉に向き直る。このまま応えず、無視すれば、何事もなかったように帰ってくれないだろうか。うっすらとそんな期待を抱いたが、もう一度扉を、前回よりも少し苛立たしげにノックする音が聞こえて、は早々にその淡い期待を捨てた。

錠を開け、ドアノブを回して引けば、そこには、予想通りの人物がいた。


「・・・トラファルガー様、驚きました、よくご無事で」


我ながら白々しいとは思いながらも、そう言わずにはいられなかった。『昼間の騒動で、海軍大将に追われていたと訊きました』とが続けても、ローは相変わらず無表情で立っているだけだ。昼間のあの時が嘘のように、今は全くその声が聴こえない。は、これ以上彼に神経をとがらせても無駄だと潔く諦めることにした。 ぐっと、口角に力を入れて笑顔を作る。


「ご用件でしたら、中でお伺いいたしましょう」




ローをロビーのソファへと座らせて、『お飲み物はいかがいたしましょう』と訊ねれば、ようやっと『水でいい』とローの声が聞こえた。それだけで、は何となく落ち着きを取り戻す。はどうにも、やましいことがあるわけではないのだが、初めて会ったあの時からローのことが少し苦手だった。というのも、は、 何を考えているか分からない人間に接する方法を、殆ど知らないも同然だからだ。そういう苦手意識と、先刻の一件の後ろめたさが相まって、は少し緊張していた。しかし、ガチガチに固まっていてもはじまらないので、彼は、分からない分かってくれない人じゃなく、 きっと投げれば投げ返してくれる人だ・と自分に言い聞かせて、自分の中のポジティブさを必死に鼓舞する。

水の入ったグラスを彼の前に置き、はテーブルを挟んだ向かい側に腰掛けた。そのグラスの水を一口飲んで、ローは口を開いた。


「さっきは、うちのクルーが世話になった。礼を言う」


まさかそこまで単刀直入に来られるとは思っていなかったは、思わず息を呑んでしまった。聞かれるかとは思っていたが、断定されてそのうえ礼まで言われると、これはもう認めざるを得ない。たったそれだけの台詞だったが、彼には敵わないとが思うくらいの破壊力があった。


「・・・いえ、私が勝手にしたことですので、お礼など」
「その手の傷は、その時についたんだろう?うちのクルーは、相手が黄猿だったにもかかわらず、お陰で無傷だった。そこまでしてもらっておきながら、礼を言わねェわけにもいかないんでな」


そう言ったローが、身を乗り出して、向かいに座るの手をとった。急なことで反応が遅れたは、されるがままになっている。いつ気がついたんだろう、どうしてその時の傷だと分かったんだろう・と、答えの見えない疑問ばかりがの頭に浮かぶ。ローは、掌の状態をじっくり観察して、言った。


「・・・冷やしたのは賢明だったが、それだけじゃ不十分だ。掌を上に向けてテーブルに置け」


言うや否や、ローは立ち上がり、傍のテーブルに先程からが出しっぱなしだった応急箱と包帯を取ってきた。そして、応急箱から迷いなくバームとガーゼを取り出すと、彼はの右手からてきぱきと処置を始めていく。は、そんな彼の手つきを黙って見ているだけだった。


「指の付け根あたりは、火傷の深度が深い。しばらくは病院に通うことになるかもな。焼き切れた傷はすぐ治るだろう」


みるみるうちに右手が包帯で固定され、心なしか感じていた痛みも軽減したようだった。そのまま左手に取りかかったローだったが、その薬指の指輪を見て、眉を顰めた。それが治癒に邪魔だろうことは、も薄々察知はしていた。しかし指の腹の損傷も酷く、そのまま指輪を抜くわけにもいかないので、つけたままにしておいたのだが。


「・・・暴れるなよ、」


為す術なくぼんやりしていると、ふとローがそう言って、の左手の上に自分の右手をかざす。と、そこに、の左手を覆うように半球の膜が現れた。がそれに目を取られている隙に、ローは担いできた大刀をすらりと抜き、有無を言わせぬ勢いでその半球の中に突き立てた。対すると言えば、 息も吐かせぬその展開に目を剥くばかりで、最早声すら上げられないようだ。
突き立てられた刀は、の左手には直接触れず、テーブルにぐっさりとその頭を沈めている。そのことに少しホッとしたは、自分の左手を見て、またも目を剥いた。

どういうカラクリか、薬指が、まるで何かの部品だったかのように根元からポロリと取れてテーブルに転がっているのだ。しかも、要は指が取れているにもかかわらず痛みはなく、なのに感覚は消えておらず、こちらの意思と連動してぴくぴくと動いている。一体何が起こっているのか分からずに目を白黒させるを余所に、 ローは淡々と切れた薬指の根元から指輪を抜き取って、そしてまた淡々と、まるで積木でもしているかのような手つきで、ピタリと薬指を“くっつけた”。

唖然としているを放置したまま、何事もなかったかのように、ローは引き続き左手の処置を進める。それを見て、やっと感覚が追いついたのか、は口を開いた。


「あ、あの・・・・・・これはどういう、」
「傷口に指輪があたってたら治るモンも治らねェからな」
「い、いえ!そうではなくて!さっきのは、貴方の能力ですか・・・?」


ローは、何だそっちか・とでも言いたげな視線をに一瞬寄越して、『ああ』と答えた。


「オペオペの実の能力だ。球状の膜の中は、いわばオペ室。おれはその中でなら、あらゆるものを意のままに操ることができる。例えば、血を流さずに肉体を切断したり、な」
「そう、なんですね・・・・・・」


ローはあっさりと説明したが、よくよく考えてみれば、彼の想像力次第でどうとでもできる能力である。は、その底知れない能力の幅広さを知って、ようやく彼の2億には収まらない程の実力の意味を飲み込んだ。

そうこうしているうちに左手の処置も終わり、はぼんやりと『ありがとうございます』と礼を言った。ローは聞こえているのかいないのか、先程までの指にはまっていた指輪をおもむろに手にとって、指先で一通り転がして眺めた後、ピンと親指で弾いての方へ投げ寄越した。


「で、本題だが。宿屋、アンタの能力は何だ」


またも単刀直入な物言いだったが、はもう驚かなかった。ローとの会話に慣れてきたこともあるが、それ以前に、自分の能力については訊かれないわけがないと思っていたからだった。


「クルーから聞いた話だが、黄猿の攻撃を2回に亘って退けたそうだな」
「・・・いえ、一度目は、彼らを攻撃の当たらない場所へと移動させただけです」
「ああ、まあ、問題はそこじゃねェだろ。どうやって黄猿の攻撃を退けたのか、詳しく聞かせてもらいたい」


ローが知りたいことは、にも充分伝わっていた。もっと言えば、彼にとって自分の力がよっぽど何らかの意味を持つのだろう・と、は感じていた。でなければ、わざわざこんな夜遅くに、しかもあんな大きな騒ぎの後の夜に、自船にクルーを置き去りにして訪ねてきたりなどしないはずだ。 訊ねられている内容は、そこまでしてローが知りたいことは、には分かっている。のだが、どこから説明すべきか今一踏ん切りがつかず、は答えあぐねていた。
そんなの様子を見て、ローは、何故か至極楽しそうにこう言った。


「言えねェんなら、おれが当ててやろうか」


その楽しそうなローの表情と声色に、は、目の前の男は自分が説明するまでもなく全てを分かっているのだ・と、今になって理解した。するとどうだ、今までの問答が全て茶番に思えてきて、は、憤るどころか呆けてしまった。そんなの反応までお見通しだったかのように、目の前の男は喉の奥で笑っている。 その顔を見ていたら、は徐々にこのままローに“当てさせる”のも癪に思えてきて、思わず口を開いていた。


「船長様のお手を煩わせるまでもありません。もうご存じかとはお見受けいたしますが、私は、黄猿の攻撃から身を守れるくらいには【覇気】が使える人間なのです」


***



このシャボンディ諸島には、1番GRのちょうど真下に、知る人しか知らない墓地がある。真下と言えば地下のように思えるが、それは地下ではなく、長い諸島の歴史の中で朽ちていった古いヤルキマン・マングローブの中が空洞化し、何の因果かその外側が上手い具合にシャボンでコーティングされてできた、 巨大な空間のことを指す。そして、その空間を取り囲むように、同様にしてできた古い根が様々なGRまで広範囲にわたって張り巡らされており、いわば地下通路としての機能を果たしているのだった。

そんな暗く人目に触れない場所に墓標が立てられるようになったのは、このシャボンディ諸島に人間屋ができ、頻繁に天竜人が上陸するようになってからの話だ。単純な話で、下々の民に墓場などくれてやる必要などないと、墓地が目につくたびに天竜人が理不尽に暴れまわったからである。 しかし、遺された人にとって墓地はやはり心の拠り所であり、天竜人に必要ないと言われたからといって、建てずにはいられない。しかし、彼ら目に付くところにあれば即刻壊されてしまう。となれば、もう、絶対天竜人の目に触れない場所に墓地を移動させるしかなかった。そこで選ばれたのが、 1番GR下の巨大空間だ。

の愛したイートンも、今はその墓地で眠っている。今日は彼の命日だったので、は1年ぶりにその墓地を訪れ、亡き恋人と束の間の時間を過ごしていたのだった。

とそこに、天竜人を殴り飛ばすという前代未聞の事件。急に頭上が騒がしくなり、何事かと【見聞色の覇気】で様子を窺ってみれば、その渦中に聴き知ったトラファルガー・ローとその一味の気配を見つけた。例え海賊とはいえ、2晩接待した大切なお客様。それに、にはローに話を聞いてもらった恩もあった。 なので、何となく気になって(というと変な感じだが、そう言う以外に表現が見つからない)、は彼らの動向をその覇気でずっと追いかけていった。

すると、ひょんな拍子で、ジャンバールを連れて船を目指していたペンギンとシャチに黄猿が急接近していることに、は気付いてしまった。そうして気付いてしまったからには黙って見過ごすわけにもいかず、は、ヤルキマン・マングローブの朽木のトンネルを巧みに使って、シャチ達の元へ救援に向かったのである。

の頭の中では、自分の能力と黄猿の強さを比較して、黄猿の攻撃をかわす、もしくは防ぐことぐらいならできるだろうと、確信に近い予想が立っていた。が、現場に着いてみれば、運良くトンネルの出入り口のところからペンギンたちの足元が見えたので、これ幸いと、 黄猿が攻撃を放つ瞬間には彼らをトンネルの中へと引きずり込んだのだ。その1発の攻撃で3人の姿が見えなくなったことに得心して、それで去ってくれればとしてはベストだったのだが、さすがにそこは大将をしているだけの思慮が黄猿にもあったのだろう。 地下のトンネルに逃げ隠れていることまでは想像が至らなかったのだろうが、例え逃げ隠れていたとしてもそれを一瞬で仕留められるぐらいの集中攻撃を、黄猿は仕掛けてきた。そこでは仕方なく、自分達がいるトンネルの壁に手を当てて、【武装色の覇気】でトンネル自体を硬化させることによって、 黄猿の怒涛の攻撃をやり過ごしたのだった。といっても、さすがにトンネルに触れていた手にはショックが直に伝わってきていたのだろう、深い火傷と焼き切れた傷を負ってはしまったのだが。

ちなみにだが、ローがこのホテルで寝過ごしたその朝、遠くにペンギンとシャチのローを探す必死な声を聴きとったのも、呼吸をするのと同じくらいに容易く操れるリカの【見聞色の覇気】の為せる技だった。


***



「【見聞色の覇気】は、物心ついた時から操ることができました。大体半径7〜8km圏内であれば、特定の声を選んで自由に聴くことができます。どの程度の能力の人間がどのあたりにいるかも、距離によりますが、ある程度は把握できます。身近にいる人間ならば、次の瞬間その人が何をするかも大体分かります。 【武装色の覇気】は、シャボンディ諸島に住むことが決まってから、恩師に基礎から教わりました。先程もご説明しましたが、黄猿の攻撃を防ぐぐらいには使いこなせます」


の話は短いものではなかったが、ローは静かに、しかし興味深そうに聞いていた。


「【覇王色の覇気】については、私にはその才覚がないようで。恩師にもそう言われました。・・・・・・これで一通りはご説明できたかと思いますが、何かご不明な点はありましたでしょうか」


全て話してしまって、そしてローの顔を見たとき、は何となく今まで知らないうちに乗せていた肩の荷が下りたような気がしていた。自分ばかりが喋り続けていたからだろうか、胸の奥が何だか熱い。クールダウンでもするかのように大きく呼吸を繰り返すを、ローは、じっと見つめていた。

その視線に気付いて、は首を傾げる。


「・・・何か、ご質問でも?」


そう言ったに、ローは、これまた興味深いというような表情で問いかけた。


「今、おれが何を考えているのかも、分かるのか」


その問いに、ハッとしたのはだった。あれだけ人の声が聴こえますだの何だのと豪語した手前、ローのことはてんで読めないなので、どう答えたものか・と一瞬窮した。しかし、ローは分かった上で聞いてくるきらいがあり、何となく今回もそうではないだろうかと感じているは、下手に取り繕うのはやめて正直に話してしまおうと、 即座に腹を決めたのだった。


「・・・いえ、それが、貴方のことはこれほど近くにいても分かりません。何でしょうね、私にもよく分からないのですが・・・極稀に、読めない人がいるようで。・・・・・・実は、イートンもそうだったのです」


そのの答えに、ローはただ面白そうに『そうか』と返した。そして、グラスに残った水を飲み干して、彼はに向き直る。


「なら、最後の質問だ。“恩師”ってのは、誰のことだ」