船を岸に着けさせたローは、辺りの気配を注意深く窺いながら、ひとり船を下りた。太陽はもう沈み切っており、街から外れているこの辺りは暗く、静かだ。海兵が潜んでいるような様子もなければ、先程相手にしたくまの形の兵器も、大将黄猿も、おそらく近くにはいないようだった。しかし、そのまま気を緩めずに、 歩みを進める。

すると、暗がりの向こうから、何かが駆けてくるのが見えた。ローは、その人影が見えた瞬間こそ警戒して“ROOM”を発動させかけたが、その気配がよく知ったものであると感じ取ったのだろう、ピリピリと緊迫感のあった顔つきが、どこかホッとした顔つきに変わった。
どんどんと近付いてくるその姿は、紛れもなく、ペンギンとシャチ、そしてジャンバールのものだった。動きを見た感じ、ペンギンとシャチは特に負傷している様子もなく、ジャンバールの消耗が気にはなったが、まだ走れるだけの体力はあるのだろうと判断して、ローは今度こそホッと息を吐いた。そうしてローが気を抜いたその瞬間、 駆けてきた勢いをそのままに、ペンギンとシャチがローにがばりと抱きついた。・・・と言えば聞こえは良いが、大の男がやっているので、傍目には突進してきてそのまま体当たりをかましてきたのと同じである。


「ぐっ・・・!・・・・・・おい、お前ら、何のつもりだ」


何とか二人のタックルを受け止めて踏みとどまったローだったが、あまりの勢いに低く抗議の声を上げる。がしかし、そんなローに答えもせず、ローをひしと捕まえて離さない二人。とりあえず、遅れて駆けてきたジャンバールに、『先に船へ戻ってろ、診療室で横になっておけ』とだけ伝えて、もう一度、 ひっついたまま離れようとしない2人を見やる。近くで見ても、特に目立った外傷もなければ、体力を酷く消耗しているわけでもなさそうだ。様子のおかしい2人に、ローは、ゆっくり話しかけた。


「・・・何かあったんだろうが、それは後で聞いてやる。今は船に戻る方が先だ」


そう言えば、2人はゆっくりとローから体を離した。薄暗い上に2人が俯いているので、その顔色は窺えない。ローは、一体どうしたもんだか・と思いながら、2人を連れて船に戻ったのだった。


***



ローが診療室へ入ると、ジャンバールは気を失ったように眠っていた。それも仕方のない話で、奴隷としてどのような扱いを受けていたかは知れないが、奴隷だったからには健全に暮らせるようなレベルの扱いはまず受けていなかっただろう。精神的にも、肉体的にも、耐え難い苦汁を嘗めてきていたに違いない。その上、 いきなり奴隷から解放されたかと思えば、海軍本部の人間を相手にした乱闘騒ぎである。むしろここまで意識を保っていられたことが異常だった。

―――元船長というだけはあるな・・・なかなか骨がありそうだ

彼のその気力をしっかりと評価しながら、その手は休むことなく血液検査の準備を進めていた。
と、そこへ、ノックの音が響く。ローは、目もくれないまま『入れ』とだけ言って、その手でジャンバールの腕に注射針を刺した。


「・・・どうした、お前らも治療が必要なのか?」


部屋に入ってきたのは、ペンギンとシャチだった。ローは横目で見やるが、2人にはやはりいつもの元気さがない。何か話があって来たのだろうが、一向に口を開く様子のない2人に、痺れを切らしたローは静かに溜息を吐いた。


「突っ立ってるぐらいなら手伝え、まずは血液と内視鏡だ」


そう言えば、2人は静かに診療室の中で動き始めた。それからしばらくは、器具の音やローの指示を出す声だけが、診療室に響いた。




「・・・・・・船長、」


ようやく口を開いたのはペンギンだった。ジャンバールの腕を消毒しながら、呟くように言う。


「おれ達、船に向かってる途中に、黄猿に見つかったんです」


そのセリフに、ローの手がぴたりと止まる。3人が無事だった、それだけで、特に問題はなかったんだろうと勝手に思っていたローは、黄猿という言葉が出たことにに驚かざるを得なかった。ペンギンを見やれば相変わらず俯いたままで、帽子の影に隠れてほとんどその顔は見えない。無言で続きを促せば、 今度はシャチが口を開いた。


「正直、・・・こんなこと言うの悔しくて癪なんスけど、戦う前から勝てないと思った。あ、おれ達、ここで終わったなって、思うしかなかったんスよね・・・・・・」
「おれも、そう思った。今まで相手にしてきた奴とは、格が違いすぎました」
「それが、ほんと悔しくて、でも今こうして生きてられて嬉しくて、でも不甲斐なくて・・・・・・さっきキャプテンの姿が見えた時、おれ、なんか泣きそうになっちゃって・・・・・・もう、何て言っていいか分からない複雑な気分っス・・・」


歴然とした力の差に圧倒されたことを思い出したのだろう、2人の体が微かに震えているのを、ローは見逃さなかった。ローは自分が実際に会ったわけではないので、黄猿の恐ろしさに同情してやることはできなかったが、この2人がこれだけ打ちのめされることなど今までになかったことを考えると、 自ずとその格の違いとやらが目に浮かぶ。しかし、そんな怪物を相手に力が及ばなかったからといって塞ぎこんだところで、何の足しになるわけでもない。おそらく単純に、今までにない恐怖を味わって気が動転しているだけだろうと見当を付けて、ローは言葉を選んで話し始めた。


「・・・おれとしては、どういう経緯であれお前達が無事で良かったと思ってる。それもあの黄猿相手になら尚更だ。気が動転してるだけだろ、落ち着いて、ゆっくり息をしてみろ」


ローは、2人の様子を注意深く観察しながら、深呼吸を促した。ゆっくりとした呼吸を繰り返すうちに、2人の震えが治まっていく。2人が落ち着いてゆくその様子を眺めながら、ローは、しかし・と考えを巡らせていた。
それだけの思いをしていながら、あの黄猿に見つかっていながら、3人はどうしてここまで無傷で戻って来られたのだろうか。黄猿が相手で、正面から対峙していれば、もし自分がついていたとしても全員無傷では戻って来れなかったに違いない。


「・・・・・・でも船長、多分おれ達3人だけだったら、冗談じゃなく瞬殺でした」
「・・・どういう意味だ?」


少し落ち着いて、気力が戻ったのだろう、先程より幾分かハリのある声で、ペンギンが言った。しかしその意味を図りかねて、思わずローは聞き返す。ゆっくりと顔を上げたペンギンと、目が合った。


「助けられたんですよ、ある女に」


***



ホテルへ戻ったは、その足ですぐさま奥のバーへ向かった。シャワーを浴びたり、着替えたりもしたかったが、その前に、掌を冷やさなければならなかったからだ。洗い桶に氷水をたっぷりと張って、その中に両手を浸ける。途端、両掌から痛みが体中に駆け巡った。

―――やっぱり、黄猿のあれだけの攻撃を受けておいて、無傷では済まないか・・・

の両掌は、全面が火傷を受けたように白く腫れ上がり、ところどころ焼き切れたように傷がついていた。この調子だとしばらくは手を使うのに不自由しそうだ・と、他人事のようにぼんやりと思っていた。黄猿の攻撃は光。それ自体が熱量を持っているし、それにスピードというエネルギーも加わって、 やはり生半可な破壊力ではなかった。何とか持ちこたえたものの、実際に攻撃に一番近かったこの掌が、こうして酷い有様になっている。熱を受けたので冷やしてみようかと安直に考えてのこの行動だが、当たらずとも遠からずなのか、痛みの浸食は止まったようだった。少し安心して、肩の力を抜く。

思い返してみれば、無謀なことをしたものだった。相手は、何といってもあの黄猿だったのだ。下手をすれば3人を救うどころか、自分の命も危なかったかもしれない。は、自分が上手く力を発揮できたことが、寧ろ奇跡的なことのように思えてならなかった。

更に言えば、誰かの命を救うというのは、にとっては今回が初めての経験だった。助けてくれと言われたわけでもなく、助けて来いと命令されたわけでもなく、自分の意思で、3人もの命を救った。その事実が、今更ながらの頭に浮かび上がってきて、は頬が紅潮するのを感じた。鼓動も早くなり、 なんだか全身が熱いような、それでも頭は冷静で客観的で、・・・そんな不思議な感覚に襲われる。3人分の命、自分の命、掌の怪我―――は、水中でその左手の薬指に光る指輪を眺めながら、ひっそりと自分の心臓の音に耳を澄ますのだった。