宴も終盤に差し掛かり、ひとり、またひとりとクルーが酒に呑まれていく中、まるで水でも飲んでいるかのように・・・いや、おそらく水でもここまでの量は飲めまい。ひとり静かに酒を淡々と胃袋に流し込むその男を、は化け物にでも出会ったかのような衝撃で見ていた。ザルという言葉があるが、それではおそらく役不足で、 ワクぐらいの表現が、きっと目の前の男にはちょうどいいに違いない。ふわふわと手触りの良さそうな斑点模様の帽子を愛刀の柄に引っ掛けて、涙袋に隈を下げたその男は随分と機嫌が良さそうに飲んでいる。むやみやたらにガバガバと飲んでいるわけでもないのだが、あまり酒に強くないから見れば十分早いと言えるペースで、 しかもそのペースが飲み始めから一切乱れていないのだ。同じ人間かどうかも疑わしいほどの飲みっぷりである。


「飲み過ぎは、体に悪いんじゃありませんか?ドクター」
「体内で分解できてる内は飲み過ぎたことにならねェよ」


がカウンター越しに心配して声を掛けるが、それに平然と答えてくるあたり、悪酔いや呑んだくれはしてないようで。彼自身が医者ではあるし、とりあえずは大丈夫そうだ・とは判断する。

それにしても、彼の飲み方は逆にの心臓に悪かった。ローは、元より端正な顔立ちで、スタイルも良く、要するに女が放っておくような男ではないのだが、そこに酒が入れば入ったぶんだけ、更にその色気が増すタイプだと思われる。充分に酒が入った今となっては、さすがのも直視すれば赤面しそうになるほどだ。 にはイートンという男が心の支えとしてあるからまだ良いものの、先程ペンギンが、『酒が入るとうちの船長はタチが悪い、気をつけろよ』と言っていた意味が何となく分かるような気がした。


「宿屋、」「トラファルガー様、」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」


と、お互いに発した言葉が重なって、なんとなく、お互いに口を噤んでしまう。一拍そういった間があって、ローは、呆れたような表情になった。


「・・・お前、本当に覇気が使えんのか?」


そう問えば、はハッとなって、それから苦笑する。『昨日も申し上げましたが、トラファルガー様のことは、読めないんですよ』と返したに、そういうものなのだろうか・と、ローは未だ訝しげだ。


「そ、それより、ご用件は?」


自身理由の分からないことにこれ以上突っ込まれると困るので、は話題を変える。そんなの様子に、思うところがなくはないが仕方ないと諦めたように、ローは口を開いた。


「・・・お前から先に言え」


問うたことがそのまま自分に返ってきて、は半ば困惑した。別に大したことを訊こうと思ったわけじゃないのだが、改めて言えと言われると言いにくいもので。逡巡していると、先を促すローの視線が眉間に刺さった。


「ではお先に・・・。あの、トラファルガー様はいつ頃ご出航されるのですか?」


が投げた質問は、ちょうど今ローが考えていたことと当たらずも遠からずなものだっただけに、ローは、やっぱり読まれてるんじゃないか・と頭の隅で考える。が、それは億尾にも出さずに、ローは答えた。


「コーティングの件もあるが、それを別にすれば、・・・火拳屋の公開処刑が近々マリンフォードで行われるらしい」
「火拳、というと、白ひげの?」
「ああ。・・・なんだ、昨日の号外見てないのか?」
「生憎取り逃がしまして。ですが・・・そうですか、火拳を公開処刑にしますか・・・。海軍も思い切ったことをしますね」
「まあ間違いなく、海軍は白ひげ一派と正面衝突することになるだろうな」


海軍と白ひげ一派の正面衝突。言葉だけだと簡単に聞こえるが、場所がマリンフォードであることと、相手が白ひげ海賊団であることを考えると、それはただ事ではない。どれだけ小規模に留めたとしても一国の戦争ぐらいの規模にはなるだろう。は密かに身震いした。


「おそらく、どちらが勝っても歴史が変わるぐらいの出来事になる。おれ達海賊にとっても大きく風向きが変わるはずだ。それを、こんな近くにいて見逃すバカはいねェだろ」


海賊だけの話ではない。白ひげは、世俗に疎いでも、世界中に影響力のある大海賊だと聞いている程の人物だ。全世界の注目を集めた公開処刑になることはまず間違いがない。『この島でも中継があるらしい』というローの言葉尻から、は、彼が火拳の公開処刑が終わるまではここにいるつもりだと察知した。 しかし、それを知ったところで自分がどうしようと思っていたのかが分からず、は、とりあえず『そうですか』と答える。

そんなを余所に、ローは続けて口を開いた。


「あとは、・・・」


そう呟いたと思ったら、何故か自分を見つめて口を閉ざしてしまったローに、はただ首を傾げる。傾げたところで、やっぱりローのことが読み切れないことに変わりはないのだが。しかし、酒が入って色気の増したこの男に見つめられるというのは、なんとも恥ずかしいもので。には、ほんの十数秒のその沈黙が、 とてつもなく長いように感じられる。それと、何なのだろうか。続きがあるなら早く言ってくれ・と、が目を逸らしそうになったその時、ローは(にとっては)とんでもないことを口走ったのだった。


、お前がおれの船に乗ると腹を決めれば、だな」




突然の展開に、の頭は完全にフリーズしてしまった。今、彼は、何と言っただろうか。脳にうまくインプットできなかったのか、それとも脳が考えることを拒絶しているのか、それすらもよく分からないがとりあえず、と初めて名を呼ばれたことだけは咀嚼した。ローはといえば、そんなの反応をとても気に入ったようで、 固まったを目の前にしてニヤニヤと人の悪そうな顔で笑んでいた。


***



たっぷりと時間をおいてから、がハッと我に返れば、待ってましたと言うように、脳が先程の音声情報を処理しようと動き始めた。は、どこかで聞かなかったことにしたいと思いながらも、それを止められることはできず。どんどんと頭が、先程のローの言葉を分析してゆく。

彼はの目を見て、、と呼んだ。紛れもなくのことを指している。その直後に続く『お前』もそうだろう。それから彼は何と言った?『お前がおれの船に乗る』?『おれ』は当然ローのことを指す。『おれの船』は、ローの船ということなので、ハートの海賊団の船を指すのだろう。それに、『乗る』?誰が?『お前』がだ。 『と腹を決め』るとは何だ。決心すること?腹を括ること?だとして、では決心するのは誰だ。『お前』?

だとすると、言い換えれば、だ。


「・・・・・・私、が、・・・貴方の、船に乗る、と、決心したら・・・・・・ですか?」
「そうだ」
「そうしたら、どうなるのですか?」
「新世界へ向けて出航する」
「では、・・・私、は、どうなるのですか・・・・・・?」


ひとつひとつ確認するように問うに、ローは面白くてたまらないというような表情で答える。は心のどこかで、ローの言葉を最後まで聞いてしまってはダメだと思っていた。でも、ぐるぐる色々な思考が巡る頭では、賢明な判断ができなかった。


「お前は、ハートの海賊団の一員になる」


トドメのように、ローの言葉がの頭に響く。その途端、今までゆっくり流れていたの思考の川が、いきなり激流に変わった。

誰かの言葉、自分の言葉、感情、事実、そういった過去の記憶の情報が次々と溢れ出してきては思考の川に合流し、どんどんその水かさは増して深い濁流になり、轟々との頭の中を流れてゆく。その激しい流れの中にちらほらと映るのは、自分やイートンやローだけではなかった。


「・・・それは、できません」


はいつの間にか、そう呟いていた。自分の中には轟々と何かが渦巻いているのに、それ以外はしんと静かで、妙に冷静な自分がいる。目の前には、不敵な笑みを湛えたトラファルガー・ローがいる。


「貴方の船には、乗れません」


ローの目を真っ直ぐ見返して、は、はっきりとそう言った。ローはその言葉をゆっくりと聞き入れ、自分を見返すの視線を受け止めた。


「分かってる」
「・・・・・・え、・・・・?」


は、久しぶりに聞こえたように感じるローの声を瞬時に理解することができなかった。というより、これは、彼からの何かしらの説明がなければには理解し得ない。がローの船に乗ることはできないと言った、それに対して、ローは分かってると答えた。一体何をどうして分かっているのだろうか。一体、この男は、 自分の何を知っているのだ・と、は半ば自棄に憤るような、不安で押し潰されそうな、そんな気持ちを覚えた。


「何を、分かっておられるのですか」


そうして吐き出されたの問いは、最早疑問ではなかった。お前に何が分かるのだ・と、ローにはそう聞こえた。その言葉の響き方に、ローは少しだけ、ふざけるような笑みを控える。ローがその手で琥珀色の液体が入った結露滴るグラスを取れば、音を立てて氷が揺れた。


「・・・分かってたのは、今勧誘したところでお前は乗れないと言うだろう・ってことだけだ。何故乗れないのかまでは、おれの知ることじゃねェ。単純に海賊が嫌いなのか、おれの船が嫌なのか、それともここを離れられねェ何かがあるのか、過去のしがらみか・・・・・・何かしらの理由は勿論あるだろう。だがな、 んなこたァどうでもいいんだよ」


グラスに残ったアルコールを一気に呷り、ローはを見据えた。2人の視線が交錯する。


「いいか、海賊船ってのはな、乗れる乗れないで判断するモンじゃねェんだ。乗りたいか、乗りたくないか。船に乗る奴ら全員と、その船と、生きる営み全てを共にしてもいいと自分が思うか否か、それだけだ」


その力強い眼差しと言葉に、の心は握り潰されてしまいそうなほどギシギシと音を立てている。できることなら目を逸らしたいが、何故だろう、それが今のにはできなかった。


「おれはハートの海賊団の船長として、お前をクルーにすると決めた。お前のその腕が、これからのおれ達の航路には欠かせないと判断して言ってる。もっと分かりやすく言ってやろうか?おれは、お前とあの船に乗りてェんだよ。あとはお前が、乗りたいかどうかだ」


傍から聞いている限りでは、これ以上ない最高の殺し文句である。それが酒の勢いかもしれないとはいえ、こんな色男の口から出るのだ。普通の女であればそのままくらりと傾倒してしまうだろう。が、今のにはとにかく踏みとどまることしか頭になかった。乗りたいかどうか。そう言われて、乗ることはできないとばかり考えていたはしかし、答えに窮してしまっていた。一言、言い方を変えて『乗りたくない』と言えば、全て片が付くことだと分かっていながらも。

中空を見つめたまま呆けてしまったに、ローは、もしかしたら長期戦にはなるかもしれないが、脈がないわけではなさそうだ・と感じていた。
をクルーとして迎え入れるとなれば、それはハートの海賊団にとって一大事になる。麦わらの一味やジュエリー・ボニーの一味と違って、ローの船は完全に男所帯。そこに女がひとり新しく乗りこむというのは、設備的な意味でも精神的な意味でも互いに何かしらの負荷がかかるわけで。更には、 が陸の人間であることも一つの難点である。ジャンバールは巨体なことに少々の難があれど、奴隷だったこともあって身一つ以外は何も持っておらず、それ故に、誘えば二つ返事のそれだけでクルーとして迎え入れることができたわけだが。はと言えば、土地持ち家持ち商売持ちの未亡人。 それだけで腰が重いのは明白であるし、その上の様子からすればまだ何か抱えているものがあるようで、それが後々ハートの海賊団に何かしら一騒動もたらしそうな予感がローにはあった。それを全て差し引いても、女という生き物は基本的に男からすれば理解できない存在であり、 それが四六時中傍にいるとなると妙に息苦しくなることは目に見えている。要するに、一言で言えば面倒なのだ。
しかし、それでも、ローがを誘うことに迷いはなかった。ビビッときた・なんてシラフで言えるほどの運命論者ではないが、とハートの海賊団が出会ったことを“縁”という言葉で説明してもいいのであれば、ローにはできる気がしていた。

とにもかくにも、ローはをクルーにすると決めているのだった。それも、物理的に無理やり乗船させるのではなく、最終的にはの意思で乗船させる・と。


「・・・まあ、今日返事が聞けるとは思ってねェよ。じっくり考えて、腹を決めてくれりゃァそれで良い」


ローは立ち上がり、ポンとその手をの頭にのせた。その手のせいで上手く首が動かせないながらも、はローを見上げる。ローは相変わらず、面白そうに口角を上げている。


「もののついでだ、その手の傷は治るまでおれが看てやるよ。あとそのまどろっこしい喋り方はよせ、無法者には痒ィんでな。火拳屋の公開処刑が終わっても船のコーティングが終わっても、お前が『乗りたい』と言うまでは出航しねェから安心してろ」


そう言うと、相当気分が良いのだろう、喉の奥で笑いながらローは踵を返した。その台詞の一言一句のどこにも安心できる要素が見出せない、というよりむしろそれが一番厄介だ・と思いながらも、はどうしていいか分からずただ突っ立っている。そんなを怪訝そうに振り返って、ローが『おい宿屋、 客だぞ、部屋に案内しろ』と言うので、は思考の整理もままならないまま慌ててその後を追ったのだった。