ふと目を覚ますと同時にそこが自室ではないことを思い出し、トラファルガー・ローは少し顔を顰めた。確か壁に時計が掛っていたはず・と、記憶を頼りに視線だけで部屋をぐるりと見渡し、時刻を確認する。午前3時を少し過ぎている。眠っていたのは1時間にも満たないようだ。 隣では名前も知らない女が満足そうにすやすやと眠っている。それを完全に無視するようにベッドから降りたローは、身支度を手早く済ませ、音一つ立てずにその部屋を出ていった。


***



船に戻ろうかとも思ったが、それよりも早く、何となく、シャワーを浴びたかった。あと、できれば少し、何も考えずに眠りたい。この世で一番安心して眠れるのは自室だと分かってはいるのだが、いつも使っている部屋には意外と悩みの種などがそこここに転がっていたりするもので。今はあまり戻りたくないのが本音だ。
歓楽街は、彼が足を踏み入れた時と比べると随分と落ち着いていた。ところどころで泥酔した男が寝こけている他は、往来に人の気配はない。そんな輩を見るともなく通り過ぎて行きながら、ローは、自分の酔いがしっかり醒めていることに気がついた。

―――もう一杯ぐらい入れていくか・・・

ちょうどその時、灯が点いている小ぢんまりしたパブが彼の目に入った。近場に適当なホテルか何かがあるかどうかも聞けるだろう・と大雑把に見当を付けて、そのドアをくぐる。他の客は一人もいなかった。ローは、踏み入れたその足でそのまま真っ直ぐカウンターへ向かった。 来客に気づいたマスターらしき男が彼を見やる。


「ウォッカ」


開口一番そう注文したローに、初老の男は一旦目を見開き、『こりゃ驚いた、うちみたいな小せえとこにとんだ大物が来たもんだ』と笑った。そのまま『ちょっと待ってな』と店の奥へ消えていく。
ローは、静かな店内にゆっくりと視線を移した。小さく古そうな店だが、調度品は良い具合に味のあるものを揃えてある。照明も明るすぎず暗すぎず、並べて飾ってある酒のボトルもメジャーな銘柄のものからローの知らないものまで様々。ハズレではなさそうだ・と、彼は心中でひとりごちた。


「ほれ、待たせたな」


その声に、ローが視線をカウンターへ戻せば、そこにはショットグラスが置かれていた。白く結露していて、それがよく冷えていることが分かる。コースターはない。ローはグラスを手にとるや否や、中の液体を一気に喉へ流し込み、コツンと小気味良い音を立てて空になったグラスを置いた。 良い酒を飲めば、自ずと口角が上がる。そんなローの様子に、マスターもどこか満足そうに笑んだ。


「・・・この辺りに宿屋はないか?ちょっと眠れりゃそれでいい」


そう訊ねたローに、初老のマスターは考えを巡らせた。薄汚れたそれっぽい宿なら掃いて捨てるほどある。眠れりゃいいとは言っているが、この上客はおそらく、そういうところには向かないだろう。そこまで考えると、一つ、とっておきのホテルが彼の頭に浮かんだのだった。


「この辺り、というか・・・・・少し歩くが、良いホテルを知ってる」


***



歩くといっても、それは5分弱のことだった。マスターに紹介された《ホテル・イートン》を前にして、またも、ハズレではなさそうだ・と、ローは特に根拠なく感じていた。看板の掛った入口の扉を押し開けて、中に入る。柔らかい明りに包まれたオリエンタル調のエントランスが、夜の闇に慣れた目に眩しい。 ローは目を細めて、1歩2歩と中へ入っていった。
が、てっきり『いらっしゃいませ』と来ると思っていた声が一向にない。というより、人の気配が・・・・

と、そこまで行き着いた思考が、ピタリと止まった。エントランスからロビーをまたいだ、その奥。緩くカーブを描く階段に切り取られた吹き抜けの真ん中に、立派なグランドピアノが見えるのだが。その陰で、何かが動いている。

人間、おそらく、女だ。

今ローがいる位置からでは、彼女が何をしているかまでは分からない。一瞬警戒したローだったが、その女の気配が隠れようとも逃げようともしていない、というかむしろ彼の来店に全く気付いていなさそうである上に、ここが営業中のホテルであることを思い出して、ゆっくりと息を吐いた。
その女といえば、何やら手元を動かすのに忙しそうである。作業中の人間に手前からわざわざ『いらっしゃいました』と申告するのも面倒なので、まあおそらく向こうはこのホテルの何らかのスタッフで、さすがに近付けば気付くだろう・と勝手に判断したローは、その女の方へ歩みを進めた。

が、しかし。女の姿がきちんと見えるところまで来て、その歩みも止まってしまった。それが何故かは、このときのローにはよく分かっていなかった。とりあえず彼女が間違いなく女で、そして未だにローの来店に気づいていないことだけは明白なようだ。
女は、花を生けていた。鼻歌でも歌っているのだろう、少し声が聴こえる。ローは、どこか遠い過去でも思い出しているような漠然とした感覚で、それを見つめていた。今ここに何をしに来ているのかすらうっかり忘れてしまったような、そんな感覚でもある。

どれほどそうしていたのだろうか。最後の1本を生け終わったのだろう、女は手を動かすのをやめ、自らが生けた花を眺めていた。ゆっくりと、彼女が呼吸をしているのが分かり、そこでようやくローは我に返った。今の感覚が何だったのか、それについても気になるところではあるが、 自分のペースを乱されてしまったような気がしたローは、一先ず目の前の女を自分に気付かせることに決め、再び歩み始めた。床が絨毯から木目に変わったところで、コツ、と靴音が鳴る。

その音と人の気配に、ありえない・と驚いたのは女の方だった。私が、ここまで近付かれて気付かないなんて・と、そう感じながら、一体何者かと振り返る。直後、もっと驚く羽目になるとも知らず。
―――とは彼女の名だが、そのがこのホテルをひとりで経営するようになって2年。立地的に目立たないところで細々とやっているため、このような大物がやってくることは滅多になかった。
白くふわふわとしたような帽子、細長い体躯、肩と手で支えられた身の丈ほどの長い剣。胸の位置で笑っているように見えるジョリーロジャーと、見上げた先の隈を下げた双眸には、世俗に疎いにも見覚えがありすぎた。何を言うでもなく近付いてくる死の外科医に、恐怖よりも先に驚きが出てしまったは、 ただただ目を丸めるばかりだ。

対するローは、振り向いた女の様子を見て、そこまで驚くことか・と疑問に思いながらも、その咄嗟の身のこなしから彼女がよく訓練されていることを見抜いていた。とはいっても、そんな輩は、ここシャボンディ諸島にはごまんと居るのだが。
来店に気付かれず、挙句、花を生け終わるまで放置されたローだったが、そうなった一因は自分にもあることを分かっているため、別段気を悪くしている訳ではない。しかしニコリと微笑んでいる訳でもないので、驚きから我に返ったがすぐさま立ち上がって腰を深く折ったのも道理だった。


「お待たせしてしまいましたようで、大変失礼いたしました」


申し訳なさそうに微笑んだ表情で、は、ゆっくりと隙のない動きでローを正面に捉えた。


「いらっしゃいませ。ご宿泊でいらっしゃいますか?」
「ああ」
「かしこまりました」


間髪入れぬ、お互い若干緊迫したやり取りをして、が『もう少々お待ちください』とフロントデスクまで移動する。ローは、そんなの動きを目で追った。
デスクの後ろの飾棚に、ほんのり色味のある液体が入ったガラス製の瓶が並んでいる。それぞれ1リットルずつぐらいは入っているだろうか。は、選ぶように手で一通り瓶の柄をなぞったあと、おもむろに1つを手に取った。さらに、その左手の壁に等間隔に並んでぶら下がっている各部屋のものと思われる鍵たちのうち、 右上の端のものも、これまた慣れた手つきで取り上げた。そしてその足で、少し焦ったようにローの元へ駆け戻る。『お待たせいたしました』と、今度はにっこり笑った。


「では、お部屋までご案内いたします。どうぞこちらへ」


ちょうどピアノの後ろから、上階へと続く階段が2本伸びていた。それを一番上まで登ると3階らしい。の後ろについて行きながら、いつものことであるが、ローは静かに人の気配を探っていた。しかし、6部屋ほどありそうな2階を通り過ぎても、最上階に辿り着いても、自分たち以外の気配はないようで。 宿泊客はどうでもいいが、スタッフすらこの女以外に居ないのか・と、ローは訝しげに思う。
3階には、踊り場を挟んで部屋が2つ。そのうちの一つは、どう見積もってもフロアの面積の半分以上は使っている。もう片方もある程度の広さの部屋であることは間違いないようだ。ローの前を歩くは、広い方の部屋のドアを手前に立ち止まった。


「・・・随分と良い部屋に案内するじゃねェか、他は満室なのか?」


答えが見え透いている問いを投げたローに、は苦笑しながら『いえ、本日はおそらく、トラファルガー様だけでございます』と答えた。その苦笑で、少しだけ、空気が和やかになる。何故おれの名を、なんて野暮なことは聞かない。こんな一般人にも顔と名前が割れていることに関しては、ローはもう慣れていた。
鍵を開け、『灯をお付けいたしましょう』と先にが中に入り、持ち込んだガラス瓶から部屋の一番大きなランプに油を注ぐ。は、廊下からの明かりを頼りにマッチを擦りながら、何を察したのか口を開き、楽しげな口調で言った。


「どうせなら、良いお部屋を使っていただきたいのです。・・・なにも、無理やり高い部屋を使わせて、法外な額をひったくろうなんてことは思っておりません。お代金はお帰りの際に、お気持ちの額を置いていただくだけ」


ランプに明かりを灯す。の顔が優しげな明かりに照らされる。


「万が一、何かお気に障る事が起こった場合などは、踏み倒していただいても結構です」


振り返りざま微笑みながら発されたその言葉に、ローは、彼女が本気でこのホテルを経営している口ではないと悟った。こうも人気のスポットで、立地に恵まれていないとはいえ、こんな寂びれているのが証拠といったところだろうか。何か裏稼業でもしてるか・と値踏みを付け、 これまた彼にとってはいつものことではあるが、一瞬の隙も作らないように気を引き締め直した。そんなローを余所に、全てのランプに明かりをつけ終えたは、いっそ清々しいぐらいの笑顔を湛えて言う。


「ここは、当ホテルの自慢のお部屋でございます。どうぞごゆるりとお過ごしいただければと存じます」


ローとしては、もとより寛ぐ気も寛げる気もない。シャワーを浴びたら、少しだけ仮眠をとり、朝日が出る前には船に戻るつもりだ。だがしかし、その笑顔に悪い気はしなかった。何故だろう、警戒を怠っている訳ではないのだが、このホテルや目の前の女からは悪い予感がしない。 まあ、それも腑には落ちていないのだが。


「・・・シャワー室はどこだ」
「あちらのドアの奥に。その隣はお手洗いでございます」
「分かった」
「それでは、私は失礼いたしますね。何かご用命の際は、ベッドサイドの電伝虫をご利用くださいませ。受話器を上げていただくだけで、フロントの私へ通じますので」


『ああ』と手短に返したローに、最後にもう一度にっこりと笑んで、は部屋を後にした。閉められたドアを、ローはそのまましばらく見やる。
無駄のない挙動。海賊慣れした対応。このホテルやあの女に対して気にかかる部分がないこともないが、この諸島にいる時点でどいつもこいつも只者ではない場合が多いので、ローは考えるのをやめる。向こうが手を出せば、返り討ちにしてやればいい。わざわざこっちから厄介事に首を突っ込むのはバカのやることだ。
部屋と同じように、バスルームも隅々まで手入れが行き届いている。悪い気がしない。寧ろもしかしたら、機嫌は良いのかもしれない。自分のことを他人事のように思いながら、ローはいつもよりゆっくりシャワーを浴びた。湯加減はちょうど良かった。

バスローブに身を包み、部屋へ戻ると、ふわりと鼻をかすめる香りがする。ランプからのようだ。大方、先ほど女が注いだオイルに香りがついていたのだろう。嗅いだところで何と特定できないあたり、複数の香りがブレンドされている。ローは職業柄、匂いや味で大体何が使われているかが分かる能力がある。 念のため、あまり空気を吸わぬようランプに近づき、その芯が浸されているオイルを人差し指ですくい、舐めてみた。結果、彼の舌はそれが特に害があるものではなさそうだと判断した。
余計な警戒を解いて、ベッドに腰掛ける。心をほぐしてゆくような、故郷の春のような香りに、ローは、バスローブのまま目を閉じて身をゆだねた。


***



1階へ降りたは、どうしても先程のことが気になって仕方がなかった。生け花をいつもの飾棚に置きながら、一体彼はいつから居たのだろう・と思い返してみる。あの時はただ、本当に、驚いただけだった。そのおかげで何も考えることなく―――彼に敵意を向けることもなく、ちょっとした緊張だけでその場を切り抜けられたのだ。 考えれば考えるほど、相手があの死の外科医なだけに、今更ながら恐ろしさが募ってきた。声ぐらい掛けてくれても良かったのに・だなんて、ちらりとでも思えた数分前の自分が信じられない。とんでもない失態だ、彼から見ても、自分から見ても。
とやかく言うでもなく特に怒っている気配もなく、トラファルガー・ローがすんなりと部屋に案内されてくれたことが、果てしなくラッキーなことに思えてならないのは、彼の悪名をよく耳にしているからだけではない。

―――あの風格・・・見た目こそ優男だけど、到底2億で収まるような海賊じゃないじゃない・・・・・・

シャボンディで接客業でも営んでいれば、ある程度までの度胸や実力は付くものだが・・・。それでも、あれほどの実力者に暴れられたら、こんな小さな店なんて風の前の塵に同じ、だって赤子の手を捻るよりも簡単に倒されてしまうだろう。
末恐ろしい想像をしながら、明日は何事も起こさないように・と、は2週間ぶりの宿泊客に神経を研ぎ澄ますのだった。