ここから去らなければいけないのに。





今朝は何もかもが、初めての事だった。誰かにじっと見つめられたのも、笑顔が見たいなんて言われたのも、あんなに頑張って微笑もうとしたのも、自らありがとうと言ったのも、誰かに強く抱きしめられたのも、全部。

暫くして我に返った彼は、『ゴメン』と言いながら顔を赤くして去っていった。私はそこから動く事が出来ずに、数分間そこで固まっていた。そしてやっと、さっき思い出した。私が今、しなくてはならない事。





彼は優しいと思う。それが上辺だけじゃないということも、分かった気がする。彼のこと、嫌いじゃない気もする。むしろもう好きかもしれない。いや、それはない・・・か。 とにかく、でも、私はここを去らなければならない。あたたかい彼の居ない間に。あたたかい彼から抜け出せなくなる前に。

彼に借りたTシャツを脱いで、洗面所にある洗濯籠の中に入れて、トランクを開けて、お気に入りのブラウスを出して着た。昨日彼が洗濯してくれた、まだ乾いていない私の服を集めて、トランクに詰めた。洗面台の鏡で身なりを整え、少しだけメイクをした。髪から、昨日使わせてもらったシャンプーの匂いがした。居間に戻って、広告紙の裏に一行だけ書置きをした。お世話になった事、感謝をしているという事、勝手に去るのを許してほしいという事・・・書きたい事は沢山あった。でも、書けなかった。

寝室へ行って、ベッドを整えた。カーテンを開けて、窓を開けて、空気も入れ替えた。居間も同じようにした。記憶を辿って、出来るだけ私が来る前と同じになるようにした。





書置きを半分に折ってテーブルの上に置き、最後の準備が整った。トランクを持ち、玄関へ向かう。彼が閉めた上下二つの鍵を開け、ノブを廻して廊下へ出た。ゆっくり、ドアを閉める。
あと少しでドアが全て閉まるという所で、一つの思考が私の脳裏を貫いた。

―――――私が出た後、この部屋の鍵はどうすればいい?

私は彼から鍵を預かってなどいないし、彼も鍵を残しては行かなかった。見たところ、オートロックでもなさそうだ。今この鍵の無い状況では、中から誰かが閉めない限り、この部屋の鍵は閉める事が出来ない。

いっそ、鍵を閉めずに行こうか。その考えは一瞬だけ浮かんで、即座に沈んでいった。ここは〔キャバッローネのボス、ディーノ〕という人物の家である事を、忘れてはいけないのだ。彼が(驚くほどに)友好的で(驚くべきことに)少しドジであるのは身をもって理解しているが、マフィアのボスである以上、そんな彼と些細でも関係を持ってしまった以上、私も彼も下手なことはできない。私が勝手に去った後、もし彼に敵意を持った誰かが不法侵入でもして、悪事を働いたとしたら。今はどこぞの誰とも知らない女だけど、彼の手にかかればきっと、私の素性や居場所なんてすぐ知れる。何かあったら、何もなくても、一般人の私に逃れる術なんてないんじゃないだろうか。

被害妄想、というわけではないけれど、良くない想像をして肌が泡立った。何てことだ、昨日の夜、無理をしてでもあの手を振りほどいていればよかった。そしたらこんな面倒なことにはならなかったのに。私はまだ死ねない。燦々と陽のあたる場所で生きているわけじゃないけれど、だからと言って闇に閉ざされた世界に足を突っ込みたいわけでもない。毛頭ない。

『暗くても寒くても辛くても苦しくても、生きていることが大事。それが幸せへの一番の近道。生きて、幸せになりなさい。』

生まれてこのかた見たこともない母と、今となっては行方も分からない父から言われ続けた、形見か呪いのように身に染み着いた言葉。その言葉に生かされて、だから今まで、どうにか生きる術を考えて、ここまできたのに。

ドアノブを掴む、自分の右手を見る。半開きのドア。どうしよう、と思う。暖かいけれど暗い暗い世界に生きる彼から、一刻も早く逃げ出したいのに、そうすることが出来ない。恐怖と義理とが脳内をぐるぐるする。そのうちに、どこからか誰かに見られているような気がしてきた。気のせいだとは思うけど、気のせいじゃないような気もする。雨音が、だんだん強くなっていく。





―――――もうだめだ。

そう思って、できるだけ素早く、でもできるだけ自然に、私はもう一度部屋の中に戻った。ドアを閉め、二つの鍵も閉め、息をひそめる。心臓が、いつもより早く鼓動している。ドアノブから手を離してみれば、そこには、汗ばんだ手の跡が残っていた。彼が帰ってくるのを、とりあえず今日のところは待とう。この部屋から出られない事に気付き、少し安心した自分が居ることには、気づかないふりをした。




















部屋で一人、何をするでもなく手持ち無沙汰なままソファに身を沈めていると、一瞬何かが光った気がした。気になったので体を起こして辺りを見回したが、これといって変わった様子もなく。再び身を沈めようとしたその時、大きな音を立てて、雷鳴が轟いた。ああ、さっき光ったのは雷だったのか・と呑気に思いながら、日が傾き始めて暗くなってきた部屋に、明かりを灯した。





もうすぐ、時計の針が5時半を指そうとしている。彼が帰ってくると言った時間まで、あと少し。やっぱり出て行かなくてはいけない・と思うのに、体が動かない。体を、動かそうとしていない。だって、出ていく術も度胸もない。だって、気づかないふりはしているけど、彼の暖かさを少し楽しみに待っている私がいるのだ。

―――――ああ・・・やっぱりというか、何というか・・・

出逢って間もないマフィアの人間に対して抱くべき感情じゃないのは分かっている。けど、まだ今のところ、ここにいても大丈夫なのではないか。などと思うあたり、もう大丈夫じゃないのではないだろうか。

元来、“あたたかさ”に対する抗体など、私は持ち合わせていないのだ。彼のそれが上辺だけだとしても、それでもいい。むしろその方が傷つかなくていい。ただ単純に、彼は格好良いし、地位もあるし、もちろん財力もあるし、色々な意味で全くもって申し分ない。気に入られていれば、彼の傍にいることは決して悪いことじゃない。それに、彼の元にいれば、父のことももしかしたら・・・・・・。





そこまで考えて、やめた。くだらないこじつけだ・ということを薄々感じ始めていたのも、やめた。要は彼のそばに、・・・・・・なんて、どうかしてる。やめだ、やめ。誰かと共に生きることは、とうの昔に、やめた。約束とは違うけれど、一人で生きていく幸せもあるはずだ。

ソファの上で退屈しのぎの寝返りをうって、うたた寝に身を任せようとした、その瞬間だった。先程までとは比べ物にならないぐらいの爆音と共に、部屋の電気が全て消えた。このアパートかその付近に、落雷したのだろう。

私は焦った。7月だというのに、分厚い雲が太陽の光を遮って、まるで夜のような暗さだった。ブレーカーを探して、早く電気を点けなくてはいけない。早くしなくてはいけない。

なのに、足が動かない。幼い時の記憶が、甦る。

怖い
怖い 怖い 怖い

吐き気が襲ってきて、ソファから崩れ落ちた。何も見えなかった。幻聴が聴こえてきそうだった。早く、早く帰ってきて。私を一人にしないで。


ゲホッ ゲホゲホッ ゴホッ


嫌だ、怖い、暗いのは嫌だ。早く、早く、早く、電気を点けなくてはいけない。暗闇から出なければならない。

怖い 怖い 怖い

足が、体が動かない。苦し、い。










・・・・・・? っ!!!」


記憶にまみれた脳が、微かに彼の声を捉えた。