小雨の降る、真っ黒な夜だった。




その日はとてもハードな一日で、帰路についたのは午前1時近く。当たり前の如く疲れている筈なのに、何故かその日は、足取りも気持ちも軽かった。ここ数日降り続いている雨は、乾期にしては珍しく。でも、いつもなら鬱陶しいはずの雨さえも気持ちいいと思えるほどに、オレの心はハイだったんだろう。

あと数十メートルでオレの家だという所に、小さな公園が一つある。オレの気分が良かった所為か何かに惹かれた所為か、そんな事は分からないが、フラフラとオレの足は公園へ向かっていった。そこで、彼女に出会った。


***


特に帰る家も無く、帰りたいと思う所も無く、ただ雨だけが鬱陶しくて、私はどこか、雨宿りが出来る所を探した。別に、街に行けば雨宿りをさせてくれる人なんて溢れている。でもそういう人達は大概、私を寝させてはくれない。一人でゆっくり、雨宿りがしたかった。

そうして、ひとり郊外のひっそりとした住宅地を歩いているうちに、小さな公園を見つけた。ここなら雨宿りに丁度いい所があるかもしれないと思った。条件が良ければ一眠りでも出来るかもしれない。そんな事を考えながら、雨をしのげそうな所を探していた。その時、彼に出会った。


***


驚いた。誰も居ないだろうと思い込んで立ち寄った公園で、まさか人に、ましてや女の子なんかに、出会うなんて。彼女は革のトランクを一つ下げて、傘も差さずに雨の中を歩いていた。家出でもしたのかな・なんて思いながら暫く眺めていると、彼女がふと、振り返った。

雨の中、綺麗な子だった。さあさあと雨が無関心に降り注ぐその中で、彼女だけがスローモーション再生のように、たおやかにそこにいた。そんな彼女は、振り返ったと思ったらまた視線を戻したり、少し歩いたと思ったら立ち止まったり。その仕草は、例えば何かを探しているような、そんな感じだった。 探しているものが何なのか、というより実際探し物をしているのかどうかは、オレには分からないけれど、そんなことはどうでもよくて。とにかく、オレはそのとき彼女から目が離せなかった。

要するに彼女に見惚れていたら、彼女もこちらの存在に気付いたようで、目が合った。瞬間、驚きの光を、その瞳に湛えたように見えた。


「何してんだ?こんな所に独りで」


何も考えないうちに、口が動いていた。でも俺は、驚かなかった。そう言おうと思っていたみたいだった。


「傘も差さないで、濡れてるぜ?」


女の子は何も答えない。動きもしない。だからオレも動かない。動けない。彼女がそこにいることはとても不思議な現象のような感じがして、あまりにも生気が感じられなくて、夜中だけど白昼夢でも見てんのかな・と思った直後、彼女は踵を返して歩き出した。

あっ・と、今度は、体が勝手に動いた。疲れた筈の足が地面を蹴って、途中何度か転びそうになったけど、彼女との距離は見る見るうちに縮まった。


「お、おい!待てよ、マジで風邪ひくぜ!オレん家すぐソコだから、何も持ってねぇんならさ、タオルぐらい貸してやるよ」


彼女の左手を掴みながら、トランクを持っていながら何にも持ってないことはないだろうよオレ・と、脳内でひとりごちた。何言ってんだ、こんな、どこの誰とも知らない女の子に、このオレが。機嫌がいいにしたって、周りの輩に比べれば面倒見がいいと自負しているにしたって、こりゃあないだろう。ロマーリオがいればきっと笑われる。脳裏にパッと、からかうように笑う奴の顔が浮かんで、オレは若干自嘲した。掴んだその手は、細くて冷たくて、まるで柔らかいガラス細工みたいだった。

半ば強引に、でも、逆にオレ自身が何かに引きずられるように、俺は彼女の手を引いて連れて行こうとした。彼女は抵抗もせずに、かと言ってついて来る気もなさげに、俺が掴んでいる左手を見つめているようだった。近くで見た彼女の顔は、何となくどこかで見た事がある・と思った。

が、公園の出口に差し掛かった所で、彼女がポツリと呟いた。俺を再び驚かせるには十分な一言だった。


「・・・・・・いくら?」


***


驚いた。一人で居る筈の公園に、私以外の人が居たなんて。落ち着いて考えてみれば当たり前の事かもしれないけれど、私は一人が良かったのに。

彼はこっちを見ていた。目が合った。どこかで見た事のある顔だ・と思った。


「何してんだ?こんな所に独りで」


所々に立った外灯の明かりの下、彼の声が響いた。その声は、でも、かつて聴いたことがなかった。甘いにおいのしそうな、声。


「傘も差さないで、濡れてるぜ?」


彼は動かない。私も動かない。今日はここにすると決めた。私は他に行く所がない。一人がいいのに。あなたなんか、さっさと帰ればいいのに。

―――――あぁそうだ、私が去ればいい

なんて単純な思考回路なんだろうと、我ながら感心しながら、私は彼に背を向けて歩き出した。ついて来るな、無言でそう言って。


「お、おい!待てよ、マジで風邪ひくぜ!オレん家すぐソコだから、何も持ってねぇんならさ、タオルぐらい貸してやるよ」


なのに、彼の手は私の手を掴んだ。トランクを持っていない側、左の手首を。彼の手は、雨に濡れた私と対照的に、温かく大きかった。近くで見た彼の顔は、その声に似合って、甘く穏やかだった。

そうか、郊外とはいえ、結局彼も街中の人間と同じ人間なんだ。どこかで見たことがあると思ったのもそのせいか。放っといてくれればいいのに。そう思いつつ、心のどこかで彼が掴んだ手を離さないのも分かっていた。仕方がない。彼の要求に素直に従ったほうが、いくらか疲れずに済むだろう。私は、お世辞にも安息とはいえないけど貴重な一晩を、しぶしぶ手放すことに決めた。面倒だ・と思った。でも、やっぱり仕方がないとも思った。仕方がないから、取れるものは取らせて頂こうか。この甘い人は、とても育ちが良さそうだ。

公園の出口に差し掛かった所で、私は口を開いた。彼は至極驚いた顔で振り向いた。


「・・・・・・いくら?」