熱がでた、38度も。咳が止まらない、鼻水も止まらない。ゴミ箱は既にちり紙でいっぱい。部屋の中も自分がとばした菌でいっぱい。なんとも、苦しいもので。ああ、やっぱり健康が一番だなと、当たり前の事を思う。 それと同時に吐き出された溜息が一人っきりの部屋にこだまして、俺は危うく泣きそうになった。眠りすぎて眠れなくなって、見慣れない天井を見る。熱で頭がぼやけて、宙に浮かんでいるような感覚がした。ふと、今ならその天井にも触れられそうな気がして。 伸ばそうと思って力を入れた右手が、いやに重たい事を知った。俺には何も出来ないのかと、そう思うと余計に苦しくて、それが悔しくて思いっきり力を入れてみたら、右手は真っ直ぐ天井を指した。

でも、届かなくて。

自嘲気味に鼻で笑って、ほらやっぱりと言い訳してみたりして、自分のみじめさを正当化しようとした、その時、


「どうしたの?」


気付かぬうちに部屋へ入ってきていたが、俺の右手に触れながら言う。その手はあまりにもの手で、酷く安心させられてしまった。


「何かいたの?」


その問いに口の中で『何も』と返せば、はいつも通りに微笑んで、『お昼ごはん、食べるでしょ?』と言いながら、俺の枕元に湯気の立つ雑炊を置いた。俺が上半身を起こそうとすると、それに気付いたが俺の手を離して、空になった手が部屋の空気に触れて、急に熱を失った。


「一人で食べれる?あーんってしてあげよっか?」


悪戯っぽい口調、俺の寝癖がついた髪を手櫛でとかす。恥ずかしくなった俺は、咄嗟に『・・・いいよ、自分で食べれる』と言ってしまった。『照れなくてもいいのに』と、は肩を揺らして笑いながら立ち上がった。


「・・・どこいくの」


を引き留めたくて絞った咽から、声は出てこなくて。熱を持った息が、掠れて敏感になった気管を刺激して。部屋に残ったのは、俺と忌々しい咳だけだった。










の作った雑炊を一人で食べ終えて(すごく美味しかった)、もう一度枕元に、今度は空になった皿を置く。隣の部屋から唸る機械音が聴こえて、が掃除をしているんだなと思った。

このまま俺の存在が消えてしまったら、はどうするんだろう。がせっせと掃除をしている間に、俺が死んでしまったら、どうするんだろう。だって、あながちありえない話でもないんだから。実は難病だったりして、もう手遅れだったら、俺はどうするんだろう。がすぐそこにいるのに、この世を去る時が訪れたら、どうするんだろう。だって、一寸先の未来さえ分からないんだから。

そんな遠くて近いような想像を広げて、至極不安を感じる俺は、もういい歳なのにこんな事を考えてしまう俺は、幼稚だろうか。





俺はまだ、を失くした訳じゃないし、この熱だって咳だって鼻水だって、明日が来ればきっと治ってる。そうしてまた、例の二人と一緒に血で血を洗う日々に戻るんだろう。と他愛ない話をしたり、二人で一つの世界を共有したりできる日々に戻るんだろう。

俺はまだ、ここにいる。

でもやっぱり、どんなに掃除機の音が煩くても、の存在は疑わしくて。確かめに行きたいけど恥ずかしいから、ここで何度も確かめようとはするけど、不確かな意識の中じゃ、もうの笑顔さえ思い出せなくて。今すぐのところに行って抱きしめたいけど、体が動かなくて。


「・・・・・・何、で」


そんな自分に腹が立ってこぼした台詞も、言葉となるには未熟で、そうした台詞の後に続けるべき言葉すら見付からない始末。この部屋のどこかに盗聴器があって、それをが聞いていたらなんて、どう考えても非常識な事だって頭の中を過ぎったけど、どのみち声も言葉も無いんじゃ何もできないって事に気付くだけだった。





も俺も、地球上に60億もいる人間の中の一人にしか過ぎないって事は分かってる。
できれば、にこの言葉を持たない感情を伝えたい。
も俺も、いつどこで何が起こってどうなるか分からないって事だって知ってる。
できれば、の存在を今確かめておきたい。
も俺も、どこかの誰かに取って代わられる可能性があるって事も気付いてる。
できれば、にこの行き場のない手を握っていて欲しい。
だけど、も俺も、それでも自分の意志で今ここで時を刻む事を選んでいるんだ・と。
できれば、の存在だけでいいから本当にしたい。





今はまだ無理でも、そう本気で思えた時、きっと、に伝えたい言葉が見付かるような気がした。





掃除機の音が止んだら、無理をしてでもを抱きしめにいこう。





real ontology
I love you, Ichigo!