夢を見た。空を背負って、が手を振る夢を。俺は、離れたところからそれを見ていた。彼女は、いつものように微笑んでいたような気がした。そして、手を振り終えた彼女はそのまま、空に溶けるように消えていった。





体を揺さぶられる感覚がして目を覚ますと、俺の顔を覗き込んでいると目が合った。『おはよう、朝ごはんできたよ』と言う彼女の笑顔を見て、俺は、ああまた眠りこけてしまってたのかと、軽く自分を卑下した。体を起こし、ふと傍の鏡に映った自分を見て、昨晩のことを思い出す。 そういえば眠る前に服を着忘れていた。無防備にも裸のままで寝てしまうとは、卑下するよりも呆れ返るべきかもしれない。


「ほら、これ着て」


差し出された服を受け取りながら、たぶんこういうのが幸せなんだろうと思った。





の隣はとても居心地がよくて、それはもう安眠できてしまうほどに気持ちよくて、何もかも許される気がしてしまう。そして、そんな気がするたびに、俺は自分が嫌になる。今までは世界から疎まれ、世界を疎み、幼い俺は、そんな世界をひっくり返そうと思っていた。彼らと一緒なら、ひっくり返せる気がした。 でも、俺たちの世界よりももっと大きな世界に、逆に俺たちはひっくり返されて、図らずも今までとは正反対の世界に放り出された。それが何年前のことだったかは知らないが、未だにこの世界には慣れない。俺には優しすぎる。

彼女は生まれた時からこの優しすぎる世界の住人で、俺がこっちに来なければ出会うことなどなかった類の人間だ。お互いに相容れるはずはなかった。なのに彼女は、俺のことが好きだと言った。そして俺は、彼女に魅かれてしまった。

そのことを後悔したことは幸いながら無いけど、ひどく懺悔したい気持ちに駆られることはよくある。は何も知らない。俺が以前いた世界のことも、俺が以前していたことも、何もかも。それは、俺がに打ち明けていないから当然と言えば当然のことなんだけど、疑うこともなく俺に心を開いているを見ていると、 俺は卑怯な人間なんじゃないかと思う。彼女を騙しているような気がして、それがとても不快だ。それと同時に、俺はここにいてはいけないんじゃないかとも思う。俺は許されてはいけないことをしてきた。この世界にはない価値観で生きてきた。それを自分の中で良しとしてきた。 今も、人が壊れていく様子が鮮明に思い出される。

俺の中で、答えはもう出ていた。俺は卑怯だ。ここにいるべきじゃない。だけど、もう一人の俺が言う。なら許してくれるんじゃないか、と。それは俺自身の不確かな憶測と希望でしかないけど、居心地のよい彼女の傍に居座るためには、それしか方法がない。ここにいてはいけないと分かっていながら、 結局俺はまだこの世界にいたくてしかたがないんだ。でも、息苦しくて。俺は、どっちつかずな自分を嫌悪し、軽蔑した。まあ、俺がどれだけ頭を悩ませても、この世界を去るにしろ、許されるにしろ、に打ち明けなければならないことがあるって事実は変わらないんだけど。





台所のほうから、が役目を終えた食器を洗っている音がする。その音に紛れて聞こえないことを、俺は切に願った。


・・・・・・俺、ひとをころしたことがある、んだ」


は食器を洗い続けている。音がそう言っている。今、俺にはを直接見ることはできなかった。俺は俯いて、自分の掌を見つめていた。


「いっぱい、ころした。本当は、俺とは住む世界が違うんだ。・・・だから、」


その後に続く言葉は、台所の蛇口から流れ出る水が止まると同時に消えた。洗い終わったんだろう。俺は、を盗み見た。彼女はタオルで手を拭きながらこっちを向いて、微笑んだ。


「ちくさ、散歩にいこうか」





外に出ると、夜中に雨が降ったのか、湿ったコンクリートの匂いがした。青い空を覆い隠すように、雲が流れていく。はご機嫌な様子で、どこへ行くのか、俺より数歩前を歩いていた。

たぶん、さっきの俺の言葉は彼女に届いてなかった。それは切なくもあり、ありがたくもあった。もしかすると彼女は許してくれたかもしれないけど、そんな可能性は限りなく低い。人殺しが目の前にいると知って平常心を保てる普通の人間はいないだろう。まして、こっちの世界の人間ならなおさらだ。 彼女には拒絶されるかもしれない。そして俺は、なんだかんだ言ってそれを怖れている。でも、拒絶されたらされたで、俺はきっと心おきなくこの世界を去れるんだろう。というより、居た堪れなくなると言った方が正しいかもしれない。まあ何にせよ、俺は確実にこの世界から逃げることになる。

そのことが善か悪か、可か不可か、是か非かは、俺にははっきり分からないけど。


「ちくさ!」


俺よりも前を歩いていたの声が後ろから聞こえて、俺は振り返った。ずいぶん後ろにの姿が見えた。おそらく、俺はが立ち止まったのに気付かずに、を置いてどんどん歩いてたんだろう。自分のことばかり考えていた自分に腹が立った。

爽やかな曇空を背負ったは、振り返った俺に向かって手を振った。俺は、離れたところからそれを見ている。彼女は、いつものように微笑んでいるような気がする。既視感。

そのまま彼女がどこかへ行ってしまいそうで、俺は急ぎ足で彼女に近づいた。はっきりと近くで見たは、やっぱり微笑んでいた。


「ひとをころすって、どんな感じなの?」


笑顔のまま、彼女はそう言った。俺はその言葉に思いっきり怯んだ。聞こえてしまっていたんだと思った。そう思ったあとで、俺はまだこの世界を去る覚悟なんてこれっぽっちもできていなかったことに気づく。そしてまた、俺は自分を嫌悪した。

そんな俺に、何を思ったのか、がそっと抱きついてきた。心地よい暖かさが沁みる。今何時だろうか、まだ人が出歩いていない時間帯でよかった。泣きそうだ。


「・・・・・・とても、不快だよ」


俺の言葉に、の抱きつく力が強まった。このままこうして抱き合ってたら、いつか俺の中の汚い部分が少しずつ抜けてって、みたいに綺麗になれるかもしれない。そんな、とても幼稚なことを本気で思った。





「・・・良かった」


そう言って、はまた微笑んだ。目が合って、俺は、世界が溶けていくのを感じた。失うまいと理由もなく縋り続けてきた、幼い俺の唯一だった疎ましい世界が。





ああ、優しすぎる世界に、と





溶ける世界
(まばたきしたら、ガラス玉みたいな世界がひとつぶ、こぼれた)
くるり:雨上がり / background