オレは基本的に、自分の力量も知らずに完璧であろうとする奴が嫌いだ。そういう奴はドカスですらねぇ。有無を言わさず瞬時にかっ消したくなる。をここへ連れて来た日(拉致って来たのはオカマだが)、『がんばります』だとかほざいたあいつに反吐が出そうになったのはそのためだ。
今のお前の精神状態で頑張れるわけがねぇだろう・と、その喉笛を潰してやろうかと思った。それをしなかったのは、どうでもいいようなことしか書いていない紙切れを手にしては置き、手にしては置きする日々に、いいかげん嫌気がさしていたからだろう。
そしてその翌日、暗澹たるどころか晴れ晴れとした表情をして『Buongiorno、ボス』と挨拶を寄越してきたその女を見て、消化不良のように胃の底で凝り固まっていた胸糞の悪さが、すっと霧散していくのを感じた。その目には、高すぎる理想でもなく、
自分に対する卑屈な感情でもなく、オレに対する怒りでも悲しみでもなく、ただ仕事人としての意思があった。それがオレに、こいつは使ってみる価値がある・と思わせたのだ。
「ボス、サインをいただきたい書類です。よろしくお願いいたします。失礼します」
「・・・・・・・・・・・・」
は、期待以上の働きを見せた。今までのどんな奴よりも完璧だった。でも、だからこそ、少しオレはいけ好かなかった。確かに完璧。それを驕るわけでもなく過小評価するわけでもない。というより、自分のことなど考えていない。常に人のことを見ていて、最善の行動をとる。
自分のことは何一つ言わないくせにヘラヘラ笑って、こっちのことは見透かされている気がして、いけ好かなかった。その言動に、“”という人間味が感じられなくて、いけ好かなかった。職務中の、甲斐甲斐しさや鬱陶しい気配を感じなかったのは、そのせいだろう。オレの中に奴は存在していなかった。
だが、我欲の塊でしかないベルと衝突することで、その化けの皮は剥がれた。あの日、オレは初めてあの女の存在を見た。恐怖、戸惑い、絶望、悲しみ、そういった感情と呼ばれるものが、その時のの全てだった。
「・・・おい、」
「は、はい・・・!」
「エスプレッソ」
「あ、はい、すぐお持ちします、失礼します」
それからというもの、は度々感情を見せた。いつも見せる笑みの中に嬉しさを、隊員の死亡報告書に悲しみや憤りを、そしてオレに、“女”としての感情を。オレはに興味が湧いた。
いや、興味というよりは、少し偏りがある気がする。この興味はおそらく物珍しい人間に対する一時的なもので、きっと全てを見てしまえば飽くのかもしれねぇ。だが今は、の感情に背筋が疼くのだ。どんなヤラシイ女を見ても、普段オレはあまり欲情しねぇ。セックスは生理現象以外の何物でもねぇと思っていた。
それが、という女を前にして、底知れない欲求を感じる。昨日は勢い余ってキスしたが、そういう色物だけの話じゃねぇ。暴いてやりてぇ・と思うのだ。思うのだが。
しかし、だ。
「エスプレッソ、お持ちしました。ごゆっくり」
「・・・・・・どこへ行く」
「え、わ、私はまだ仕事が残っておりますから」
「・・・・・・・・・・」
いつもなら、は二人分のカップを持ってくる。さらにいつもなら、あいつはオレの執務室で仕事をしている。しかし今、奴はオレの分だけのエスプレッソを用意し、そそくさと『仕事』と言って出て行った。早い話が、昨日のキス以来、奴はオレを避けているのだ。
「あらボス、今日はひとりでティータイムなの?」
「コーヒーだ」
「やだわぁ・・・このビスコッティ、ちゃんにと思って、いつものコーヒータイム狙ってきたのに。んもう!ボス、何かしたんでしょう?」
「るせぇ」
「・・・・・・あらぁ、本当に何かしたの!ん〜ルッスーリア嬉しいっ!手に塩かけて育てた甲斐があったわぁ♥ ねぇボス、いったい何・・・」
「ルッスーリア」
「はいはい、分かったわよ。これ、ちゃんに渡してあげてね。イライラするのも分かるけど、あんまり苛めちゃだめよボス〜」
ルッスーリアは、奴の御用達ブランドの銘が入った小袋をオレのデスクに置いて、手をヒラヒラさせながら出て行った。余計な一言を残して。
苛めるも何も、がここにいねぇなら何もできねぇ。いや、何をするというわけでもねぇが、奴の気がしれねぇ。確かにイライラはしている。オレが何をした。たかがキスひとつ、あいつも俺に惚れてんなら悪い気はしねぇだろう。なのに。
パキッという音がして、手元を見れば、カップが割れていた。中身は飲み干していたから良かったものの、割れた破片の一つが親指の付け根に浅く刺さっている。白いカップに、血が滲む。クソが。
その時、ノックの音がして、『ボス、入ります』と声が聞こえた。だ。
「何だ」
「いえ、ルッスーリア隊長から、ボスがお呼びだとお伺いしまして・・・」
「・・・・・・・・・・・・・」
「、ボス・・・?」
部屋で書類の整理をしていたら、頭の上からルッス隊長の声がして、いつものように私は驚いた。隊長は『仕事熱心ねぇ〜。頑張るのもいいけど、体壊さないように気をつけるのよ。あ、そうそう、ボスがお呼びだわちゃん。気をつけて行ってらっしゃい』と、私が口をはさむ隙もなく言葉を放って、
とても満足げに手を振って出て行った。私は、もう見えない彼(?)の背中に、『はい・・・お気遣いありがとうございます』と言うのがやっとだった。
それでボスの部屋まで来たのだが、当のボスはといえば、『何だ』と問うた上に、理由を話せば今度は黙り込む。その顔は明らかに不機嫌で(でも今朝からボスは何となく不機嫌だ)、私は成す術がない。空気が重い。
何か悪いことをしただろうか、分からないけどごめんなさい、なんて、心の中で唱えながら、でも居た堪れないのでとりあえず何かできることを探そうと思い、部屋をゆっくり見渡す。今日はこの部屋で仕事をしていないので、何かしらあるのではないかと思ったが、特に何もない。
落胆してボスのデスクに視線を戻せば、その上に、ビスコッティと割れたカップ。え、割れた?
「っ、ボス!」
「・・・何だ」
「カップが割れて、あ、血が付いてるじゃないですか!お怪我は・・・」
「どうもねぇ」
そう言いながらボスが左手を握るのを、私は見逃さなかった。失礼します・と言ってその左手を取ってひらいて見れば、薄く切った跡。まだじんわり血が滲んでいる。切ったばかりだろう。
「ボス、せめて消毒でも」
「いらねぇ」
ボスの眉間にぐっと皺が寄って、その目に更に怒りの色が灯った。手を振りほどかれる。紅い色に見据えられて、私は身動きが取れなくなる。見て取れたのは嫌悪だ。今までの、ときめきとか言うような類のものではない。心底怖いと思った。ベル隊長のそれよりも性質が悪い。呼吸が浅くなる。
「ぼ、・・・す、」
「・・・・・・なぜ避ける」
ぽつりとボスが零した言葉と同時に、殺気というのだろうか、身を凍らせるような気配が膨張した。ぐっと、息が詰まる。生理的に涙が滲み出てくる。体が動かない。
なぜだなんて、ボスが一番知ってるでしょう。それに、なぜと言いたいのはこっちの方です。なぜ私にキスなんかしたのですか。今まで私に全く何の興味も示さずにいたはずです、あなたは。私なんかに手を出さずとも事足りているはずです、あなたは。なのに、あんなに優しくキスされてしまうと、勘違いするじゃないですか。
期待、してしまうじゃないですか。気紛れでしょう、本気ではないのでしょう、他にもっといい人がいるのでしょう。だったら、なぜ。
よく回らないはずの頭の奥底で、気持ちが暴れている。あの時、ボスのキスで自分の気持ちに抑えが効かなくなっていくのに気がついた。でも、私は期待をしていいような立場ではなく、むしろ何も考えずにただ仕事をこなさなければいけない身分だ。ボスには生かされている。それ以上のことは望めない。
だから避けていた。ボスの顔を見れば、身分不相応な気持ちが溢れてしまうから。そうなれば、もうここにはいられない。予想外に居心地のよかったヴァリアーに、ボスの側に、いられなくなる。その先には死が待っている。死が怖いんじゃない、ボスに捨てられるのが、怖い。
「今日、は・・・・・・少し体、調が悪くて・・・」
「嘘を吐くんじゃねぇ。オレがキスしたからだろう」
「、ぅあっ!ボ・・・ス、」
「なぜ避ける」
椅子に座っていたはずのボスがふっと消えて、次の瞬間私は背中を大理石の床に叩きつけられていた。首に大きな手がかかっている。細く目を開けば、ボスが怒りを露わにして私を見下ろしていた。ボスは鋭い人だ。ボスがその手に少し力を込めて、身の程知らずな私はここで殺されてしまうんだろう。
私でも驚けることだけど、ここで働くのは楽しかった。暗殺者の巣窟で、暗殺業務のバックアップをする。それが、それだと感じさせないほど、楽しかった。気でも違えたかと言われれば、そうかもしれないと答えるだろう。だけど、事実私にはここが全てだった。ボスの側にいることが、
この屋敷に来た当初も、ボスをお慕いし始めてからも。『なぜ避ける』という問いに対する答は不純で、とてもじゃないけど答えられない。
「・・・答えねぇなら、答えさせるまでだ」
「っ!んぅ、」
あの日のように、ボスの顔がぐっと近づいて、唇に痛みが走った。殺されると思っていた私は、驚くしかなかった。怒りをぶつけるようなキスに、意識をもっていかれそうになる。しかし、首にかかっていたはずのボスの手が、乱暴にシャツを引き裂いて、意識を手放しきれずに、私は目を開いた。
紅い目と、視線がかち合う。ボスは唇を離して、相変わらずの不機嫌な顔で私を見降ろした。
「なぜ抵抗しねぇ」
「・・・・・・・・・・・・」
なぜと言われても、抵抗できないんだからしょうがない。ボスの殺気に身は竦み、ボスの力に縫いつけられて、どこの誰が抵抗できるだろう。それに、ボスも気付いているはずだ(超直感とかいうものをお持ちなのでしょう?)。私がボスを・・・
「っ、・・・ぁ!」
「嫌なら殴りゃあいい。オレはセール中の安モンには興味がねぇ。抗ってみろよ」
私の耳元でそう言いながら、ボスは少し冷たい手で私の脇腹を下から上へなぞり、ついにはその手で、大ぶりとは決して言えない乳房を覆い隠してしまった。下着の上から少し力を加えられて、無様にも声が漏れる。耳たぶに当たるボスの吐息は温かく、でもそれはただ単に空気よりも高い体内温度の成せる技だと思った。
思ったのに、心なしか早口で捲し立てたボスの、私を見下ろすその紅い目までもが、熱くて。私は色んな意味で居た堪れない。今すぐ解放してほしい(心臓が壊れそう)。そんな顔をしないでほしい(ねえ期待してしまう)。でも、だけど、もっと、もう少し、(だってわたしは、あなたが、)
自分でも情けないくらい弱弱しく右手を上げて、ボスの左肩を精一杯殴る。ぽす、と、これまた情けない音がした。目尻から生暖かいものがこめかみへ奔って、涙がこぼれたんだ・と思った。
「・・・・・・テメェ、オレを馬鹿にしてんのか」
「・・・・、ボス・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「ボ、ボスはお遊びでしょうけど、でも、私はボス、が、好き、ですから・・・」
タブーであるはずの言葉は、とても自然に吐き出された。もう、何だろう、怖くもなんともない。いや、それは嘘かもしれない。だけど、怖いからじゃない、ボスの目を見れないのは。とても熱い。恥ずかしい。ボスはぴくりとも動かない。紅い目はこっちを見ているような気がする。
今ここにある音は、私の声帯が発するものだけ。ボスの鼓膜は、きっと震える。
「怖いです・・・遊ばれるのなんていや、ですけど、ボスなら・・・・・・・・いいんです、もともと私は、っ・・・奴隷みたいなものですし、それでボスのお気が済「済むか、ドカス」むなら私・・・」
「・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・!ぅ、ん・・・・・・ぁ、あの、ボ、ボs」
ぴくりとも動かなかったボスの手が、弾かれたように急に床と私の背の間に回り、それは器用にも一瞬にして下着の留め具を外してしまった。もう片方の手は下着と乳房の間に滑り込んで、私はもう一つ、微かに声を漏らす。冷たくない。驚いてボスを見れば、相変わらずの目。いつもと同じ色。
ただ少し、やっぱり熱いだけで。どうして、あなたがそんな表情をするのですか。私はただのデスクワーカーのはずでしょう。
またも弱弱しい力で、私の胸にあてられた方のボスの手首を精一杯掴む。どうして、抵抗しろなどというのですか。できないことも分かっているはずでしょう。ボス、教えてください、ねえ、
「・・・・・・・・ぼ、す・・・」
「・・・惚れてもいねぇカス女を無理やりしてまで組み敷く必要に駆られるほど、オレは不自由してねぇ」
「え・・・?」
「オレを好きだと言ったのはその口だろうが。今更撤回できるなんて思うなよ」
まさか自分の口から惚れただの何だのという言葉が出るとは、この瞬間までオレですら夢にも思っていなかった。言うつもりもなかった。本心ではない。いや、そうなのか?言うつもりは確かになかった。本心ではないと思っていた。というより本心って何だ。
今のオレの、この際限無い欲情と駆り立てられるような衝動は何だ。
オレの下で、は目をしばたいている。直に触れたの体は温かかった。何て顔してやがる。そんなにひどく悦に入らされてしまうオレは、何て様してやがる。不快だ、ひどく。でもそれでいて、こんなに愉しいのは何故だ。
「、の・・・・・・て、撤回だなんてそんな・・・」
「不服じゃねぇんなら、満足だと言え」
『喘ぎ声でな、』 言いながら、目尻とこめかみを繋いでいる涙の跡を、舌でなぞる。自分に対してかに対してかは知らねぇし置いとくとして、とりあえず一度笑ってやれば、の顔はさらに“女”になった。
***
ふと気がついてやっと、自分が眠っていたことを知る。そのことにまた少し不快さを感じ、眉間に皺を湛えてオレは上体を起こす。いつの間に、今何時だ、なぜだ、分からないことは覚醒した瞬間腐るほど出てきた。そしてそれと同時に、深い眠りの底にいる隣の存在を認める。
何も身につけていないであろうの姿が、薄いブランケットの下にありありと想像できる。窓の外から、遠くの鐘の音が聞こえる。
不思議と後悔はなかった。無論、普段からオレに後悔などないのだが。の体躯は想像通りで、それは想像通りにオレの欲を誘発した。想定内のリアクションと想定内の事の運びだった。唯一予測できなかったのは、こいつの隣で眠ってしまったことだ。アサシンにとって、一生の不覚と呼べるならまだしも、
うっかり一生を終えかねない事であるというのに。まあ、結果的には今こうして俺は生きているのだが。
が、少し身じろぎをする。不覚にも、惚れたなどと言ってしまった。それが無意識かつ本心であるのか、それとも気まぐれかつ戯れであるのかは、今更じゃ超直感でも分からない。しかし、を抱いた今、久々に感じた欲情は久々だから感じたものではなかった・という事実だけが、確かにあった。
それを『惚れた』という言葉で片付けるのが正しいかどうかは知らねぇが、あながち間違ってもいない気がするのは、超直感だろうが本能だろうが拘りなく真だ。その頬にかかる、オレと同じ黒い色をした髪を、そっと払う。窓の外で、夕焼けがぼんやりとこっちを見ている。
「・・・・・・どんなモンか、しばらく“愛して”やるのも悪くねぇ、か」
ひとりごちた言葉は、を目覚めさせるには少しボリュームが足りなかった。しかし、意外にも、己の意思を揺り起こすには十分な響きを持っていて。XANXUSという男に迂闊にも見染められてしまった哀れな女の命運を思って、オレは他人事のように笑った。
シャワーを浴びるか迷ったが、結局もう一度、ブランケットの中へ潜り込む。眠りたい・と思った。本人は無自覚だろうが、一人前に我が物顔で隣に横たわる女が覚醒するまで。もしくは、空気の読めない無配慮な誰かが起こしに来るまで。この、露骨に肌馴染みのいいベッドで。