数日経ったその日も、私はこれまでと変わらない朝を迎えていた。目覚まし時計がいつもの時間になり、いつものように朝食をとり、いつものように出勤の準備をする。アパルトメントの壁の向こうからは、今日も若い夫婦の喧嘩の声が聞こえてくる。相変わらずだ。

だからこそ、あの夜のことは余計に夢のように思える。ていうかそう信じたい。本当に何も変わらない。私が気付いてないだけかもしれないけど。記憶も曖昧になってきた今、あの夜の出来事を事実だと証明するものは、まだ膝に少し残っている打身だけだ。この青痣も、実は酔っ払ってどこかにぶつけただけだったり、 しないだろうか。このまま何も無かったように毎日は続くんじゃないだろうか。そう、きっとそうだ。知らない、あれは夢だった、平和ボケばんざい。

昨日も履いたローヒールの黒いパンプスを、今日もまたひっかけて、歩き慣れたいつもの道を早足に行く。朝からふわふわと考え事をしていたせいで、家を出るのが少し遅れてしまった。遅刻はしないだろうけど、なんとなく焦る。あ、信号が青だ、あれで渡れるかな、ここからじゃちょっとキツ・・・

私の脳内音声は、そこで途切れた。首の後ろに、トン、と衝撃を受け、世界が傾いで歪んで見えなくなった。な、に・・・?



***



浮き上がる感覚がしてふと目を開ければ、眩しい光が飛び込んできて、私はもう一度目を瞑るはめになった。今度は少しずつ目を開ける。見たことのない光景。天井?とても豪華、シャンデリアまである(どうりで眩しいわけだ)。


「起きたか」


少し離れた所から不意に声がして、私は少し飛び上がった。その勢いで上体を起こして初めて、ベッドに寝かされていたことを知った。ベッドは無意味に大きく、そのせいで声が離れて聞こえたようだ。ベッドサイドの、天上のシャンデリアにとても似つかわしい豪華な椅子に身を沈めて、1人の男がこちらを見ている。 見たことのある男だ、確か・・・


だな」
「っ、はい・・・」
「ザンザスだ。今からオレが言うことに関して、テメェに拒否権はねぇ。聞き逃すなよ」
「は、い、・・・・・・」


ザンザス。その名前を聞いて、私の予感は確信に変わった。あの夜の男だ。黒ずくめの衣装に、あの日は気付かなかったが、派手な羽根の飾り、顔にはやっぱり赤黒い痣がある。その紅い目はとても高圧的で真っ直ぐで、目を合わせていられない。射られるような痛さを感じる。一言『はい』というのも難儀だ。

彼を前にして、私はようやくあの夜の出来事が事実だと飲み込んだ。ここは明らかに私の部屋でもなければ、オフィスでもない。ここに来るまでの記憶がない。俗にいう、拉致ってやつだろうか。ついさっきまで平和で何も考えていなかった自分が悩ましいというか、腹立たしいというか。 ああ、今日こそ殺される。拒否権はどうやら与えてもらえないらしい。彼は実に優雅な動作でサイドボードから紙の束をとり、面倒臭そうにパラパラと捲った。



「テメェについては、もう充分すぎる情報が集まってる。歳は24、女、A型、日本国籍、某企業の日本支社取締部に勤務、有能、昇進したばかりだそうだな。両親は事故で2年前に死亡、血縁が日本に4人いるがコネクションは無し、現在恋人も無し、 フィレンツェでの一人暮らしは今年で2年目、イタリア語力は簡単な日常会話程度、英語力はそこそこあり、・・・だそうだが?」
「は、はい・・・・・・」
「まあ有無を言わせねぇ経歴だが、不運だったな」


こんなつまらねぇ紙切れを見るまでもなく、この女が優秀であることは雰囲気で分かっていた。まごうことなき自分のパーソナリティが他人の口からすらすらと紡ぎだされて、青ざめるというよりはむしろ感心すら覚える・といった表情の女。殺気すら出してはいないものの(もとより今日はこの女を殺すつもりはねぇ)、 オレを前にしている割には、他の女よりも落ち着いている。


「テメェは今日からここに永久就職だ」
「え、・・・?」
「なんだ、拒否権はねぇと言ったはずだ」
「あ、あの、私は、殺されるんじゃ・・・」
「・・・うるせぇ死にてぇのか、テメェの能力を買ってやるっつってんだ」
「は、はい、」
「だが生ぬるい仕事しやがったら消す。死にたくなけりゃ、オレに向けて首を横に振るな」


そう言えば、女の表情に初めて絶望が見て取れた。だがそれも微々たるもので、女は泣くわけでもなく、取り乱すわけでもない。世話が要らないだけ楽だが、今まで見てきた女とはどこか違う。奴の落ち着きは、一種の諦観からきているような、そんな気配すらした。


「・・・あの、」
「なんだ」
「私の友人や同僚は・・・無事なんですか?」
「・・・オレがそんな暇人に見えるか?出来なくはねぇ。だが有機物を消すより無機物を消すほうがやりやすい。テメェの交友関係なんざ知ったこっちゃないが、テメェに関する世間の記録や記憶、物的証拠は全て消した。こっちも足が着くと困るんでな」
「消し、た・・・・・・」


女はその事実に少なからず驚いたようだが、すぐに『でも、じゃあ無事なんですよね』とホッとして見せた。自分の状況も把握しきれてねぇだろうに他人の心配とは、随分とまあ余裕があるもんだ。理解はしがたいが、不思議と腹は立たなかった。

腹が立たない代わりに、なのだろうか、この女を前にすると余計なことを言ってしまいそうになる。いや、こいつにとってはどんな情報も今はありがたいだろうが、元来俺はそんなに親切な人間じゃねぇ。ザコどもとは話すどころか同じ空気を吸うことすら億劫だ。なのに今、いつもより饒舌な自分がいる。 抵抗しようともせずに、ただ受け入れる女。普段見ている女とはそこが違うからだろうか、拍子抜けして喋っちまうのかもしれねぇ。が、何にせよ不本意だ。調子が狂う。何となく心持ちが悪くなって、オレは部屋を出るべく立ち上がった。



「・・・テメェの部屋はここだ。後でルッスーリアという男が来る。詳しいことは奴から聞け。必要なモンも奴に言え。敷地外には出るんじゃねぇぞ」
「はい、分かりました・・・・・・あの、ザンザスさん、」
「なんだ」
「どうも、ありがとうございます」


『何がだ』と、そう問おうとして止めた。女はぎこちなく微笑んでいる。小さな声が『がんばります』と言ったのが聞こえて、オレは反吐が出るかと思った。急に、何とも言えない胸糞の悪さに襲われる。ふざけんな、使えなかったら速攻消してやる。そう誓って、オレはそのまま部屋を出た。


「・・・立ち聞きか?」
「あらボス、知ってたなら招き入れてほしかったわ」
「言ってろ」
「でもボスが女の子を連れてくるなんて久しぶりねぇ」
「・・・雑務が面倒なだけだ」
「確かに、謹慎が解けて忙しくなったものね。あ、心配しないでアタシに任せて!彼女はとっておきのコに育ててあ・げ・る☆」


案の定ドアの外で突っ立っていたルッスーリアが、興奮した様子でまくし立ててきた。『ボス好みにするから、お楽しみに〜♥』とか何とか言いながら女のいる部屋に入って行ったルッスーリアは、全くの聞く耳持たず。チッ、相変わらずなオカマ野郎だ。

女といっても、連れて来たのは女としてじゃねぇ。リング戦から3年、ようやく謹慎は解けたものの、本業の依頼は少ない。下っ端も最小限しか置いてねぇから、必然的に幹部もわけのわからねぇ雑務に追われる。幹部ならまだしも、何でオレが。やってられるかってんだ。あの女には、それしか期待してねぇ。 用が済めば消す。そういう意味での永久就職だ。

などと、誰に言うわけでもなく弁明じみたことを考える自分に、ひどく苛立ちと疲れを感じる。クソが。『うるせぇ』とひとりごちて、自室へと向かった。