その時オレは異常にムシャクシャしていて、ザコでも何でもいいからとりあえずこの手で捻り潰したくてたまらない衝動に駆られていた。理由は、他に類を見ないヴァリアークオリティをもってしても終らない仕事のせいだ。ついこの間、リング戦における9代目の殺傷未遂その他諸々の処罰として課せられていた、
重苦しくてうざったい謹慎が解けた。それですぐ本来の業務に戻れるとは微塵も思っていなかったが、しかし、ここまで酷いとも正直思っていなかった。本拠地である古城に戻ったオレ達を待っていたのは、山を山積みしたような大量の書類だった。うざったいことに、ここまで変わりがないとは。
ボンゴレ本部に吸収されて、ただでさえ少なくなった人員。終わりを見ないうちに次から次へと追加される、今までは手を下すまでもなかった薄っぺらい雑務。ケツの感覚が麻痺するほどにスタティックな一日。トレーニングすら許されないスケジュール。クソが。
そんな中、やっと手にしたのは昨晩からのBランク任務。本能のままに、普段は手を下すのも躊躇うようなチリよりも脆弱で同情すら誘うゴミ共を殺して殺して、
それでも治まりきらない苛立ちを存分に込めて最後のザコを消そうとしていた、まさにその時だった。失禁せんとばかりに目を白黒させるゴミを目の前に、自前の銃を突きつけ、その顔が散る瞬間が刻一刻と迫る、オレが至福を覚える数少ないその瞬間に、妙な雑音が入ったのだ。
その雑音は徐々にオレがいる方へと近づく。この緊張感にそぐわぬ、酷く弛緩した気配は、まるでワルツでも踊っているかのような軽快さで暢気に近づいてくる。オレはそれに気づいていた。それが味方でもなく敵でもなく、ただの関せざるべき一般人であるということも。
その時点で、オレのすべき行動は必然的に≪隠れる≫となるはずだった。いつもならそうした。だが、オレはしなかった。殺し足りなかった。一般人でもいい、何かをこじつけてでも、殺したかった。ワルツを刻む足取りの主は、まさに飛んで火に入る夏の虫だった。
深夜1時はとうの昔に過ぎているはずだ。月は雲に隠れている。ゴキブリすら通らないようなこの路地裏にバカな虫が足を踏み入れたのをぼんやり確認して、オレは、恍惚と引き金を引いた。手の内の銃身から、激しく閃光が漏れる。チリが文字通り塵になる。閃光が砕け散ったその先に淡く見えたのは、
眩しさに顔をゆがめつつも驚きを隠しきれない東洋人系の女の顔だった。チッ・と、無意識に舌打ちが出る。この期に及んで女、か。やりづれぇ。
「Chi sei?」
「え、あ、sono...」
「ジャポネーゼか?」
「Si、そ、そうです」
「フン・・・他人の仕事を盗み見るとは、日本人にしちゃ下世話だな」
「す、すみませ・・・そんなつも、りじゃ」
「黙れカスが。何を言ったところでテメェの命はねぇんだよ」
「・・・・・!」
「ザ、ザンザス様、お言葉ですが一般人を手にかけると後々の処理が・・・!」
「クソ共は引っ込んでろ」
怖れ慄いて傍観していたくせに、今更になって五月蠅い部下どもを一蹴し、オレは、あまりの出来事に身動きがとれないだろう女へと近寄った。女がオレを恐れているのが、気配だけで手に取るように分かる。弱い。笑えねぇぐらいに。
だが気丈にも、女は腰を抜かさなかった。ついさっきヒトを一人殺した男が目の前にいるというのに、気を失わなかった。女を見下ろす。酷く小さい。それなのに、怯えながらも、女はしっかりとオレを見ていた。月が雲間から顔を覗かせて、夜の闇の中、女の顔が浮き彫りになる。
それが、迷うことなく嬲り殺せるぐらいに醜いことをオレは望んでいた。生まれもった女という自衛手段を無碍にしてしまうぐらい、醜いことを。だが、月明かりに照らされたその顔は、予想に反して端正で、オレはそこで、不覚にも銃を下げてしまう羽目になる。
「女、名は?」
「・・・・・・、です」
「・・・そのまま消えろ。オレの気が変わらねぇうちに、な」
「え、・・・」
それだけ言うと、顔に痣をもった大男は私に背を向けて、次の瞬間にはもういなかった。彼の部下、だろうか、彼のことをザンザス様と呼んだ男も、もういなかった。暗い路地裏に、私だけひとり。
消えろ・と言った本人が消えてりゃ世話ないんじゃないかなどと思えてしまうあたり、私にはなぜか余裕がある。それがどうしてか、はっきりした理由は分からないけど、多分さっき起こった出来事があまりにも非現実的だったからだろうと思う。会社での昇進が決まり、同僚と祝杯を交わしたその帰り道、
昇進というだけで非現実的で浮足立っていたところに、普段は目につかなかったひっそりとした路地が現われて、ひどく魅かれて踏み込めば、光が弾けて人が一人消えた。その状況に咄嗟にはついていけず、一拍遅れて、私はもしかしてもしかしなくてもヤバいモノを見たのでは・と、慄然とした。
脳裏にうっすらと“マフィア”という単語が浮かんだのも、それと同時だった。
消えなかった方の男はというと、体躯も態度も大きいうえに私を殺す気も満々で(彼の持つ銃がまっすぐに私を見つめていたから間違いなかった)、でも、酔いが夜風と驚きと意味の分からない恐怖で醒めていた割には格好良く見えた。今宵は満月、月明かりのせいかもしれない。
「・・・・・・・・・消えろ、て、動けないし、」
彼の言った『消えろ』とは、おそらく具体的にここから姿を消すことではなく、ヤバいモノを見たという業を抱えてでも生きたければそれなりのことをしろという意味だろう。だけど、そんなの無理だ。まず、動けない・と口に出した瞬間に腰が抜けてここから本当に身動きがとれないし、
両親は2年前に他界、連絡の取れる親戚も彼氏などという色物もないから、身を隠す場所も思い当たらない。ああでも逆に巻き込む人がいなくていいかもしれない。あ、でもそうはいかないかもしれないアパルトメントの管理人のおじさんとか行きつけのピッツェリアのおばさんとか同僚とか、私によくしてくれる人はたくさんいる。
いなくなるべきなのかな、私、っていうか一体何が起きてるのかな、いまだに正確に状況が飲み込めな・・・っていうか既に忘れてしまいそうだけど昇進したばっかりだ私。ついさっきまであんなに幸せだったのに。
アパルトメントまでは歩いて7、8分。3月下旬といってもまだ寒い。そういえばあの大男は日本語が上手かった、顔は思いっきりイタリアーノのくせして。どうして見逃したんだろう。錯乱していて考えがまとまらない。膝小僧が熱を持っている。さっき膝から落ちた時に擦りむいたのかもしれない。明日からどうしよう。
とりあえず抜けた腰をどうにか引きずれないかと試行錯誤しながら、いっそ昇進の部分からでもいいから全て夢であればいいのに・と切に思った。