今日は骸様からお休みを貰って、朝から服に悩んで、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、気合いを入れてみたりして。だって今日は、俺の誕生日。

台所に立つの姿は、緩く漂う香ばしい匂いは、俺を癒すには十分で。ただソファに座っているだけの退屈な時間さえもが、浮き足立つほどの充足感を与えてくれる。が居るだけで、こんなにも愛惜しい気持ちが溢れてくる。

つっけっぱなしのテレビから流れる音。トントンと包丁がまな板を叩く音。少し上機嫌なが口ずさむ音。俺が足を組みかえる衣擦れの音。

何でもない日常の一章に、ごくごくありふれた音達。どんなに頑張っても、足掻いても、俺だけでは生み出せない音達。それが、幸せのメロディーを奏でる。


「できたよ、食べよ」
「うん」


テーブルを見やれば、そこには俺の好物がズラリ。俺が食べ切れるように、量も調節されている。そして、それらに囲まれるように置かれた、一つのケーキ。俺の食欲を掻き立てる。


「ホラ、座って座って」


そう言いながら、は俺の椅子を引いてくれていた。


「・・・いいよ、恥ずかしい」
「何言ってんの、今日の主役は誰だっけ?」


は微笑みながら、俺の向かいに座った。唇の前で手を合わせて、二人で言う『いただきます』。今日だけは少し、特別な響きがした。





ただただ、淡々とした当たり前の日常の繰り返し。必然か偶然か運命か、そんなモノは知ったことではないが、その中で、俺とは出会った。特別な事もなく、非常な事もなく、それ故に、驚くほどナチュラルに、は俺の日常へ組み込まれた。俺がに惹かれるのに、が俺に心を寄せるのに、そんなに時間はかからなかった。

そんな出逢い方をしたもんだから、俺に劇的な変化はなかった。そのつもりだった。人と人との関わりの中で、変化が起こらない訳がない。そんな事は、百も承知だった。でも、犬が俺に、『柿ピー最近チョー顔色良くね?逆にキモい!』と吐くまで、それさえ思い出さずに、気付かずに。 は穏やかに、着実に、ゆっくりと、俺の日常から根本的に変化をもたらしていた。音が、声が、言葉が、笑顔が、喜びが、憤りが、切なさが、愛しさが。気付いて振り返ってみれば、いつの間にか、俺の日常の大半を占めて。





皿に乗っていた物を片付けて、ついでに皿も片付けて、腹もいっぱいになって、心は既に満腹で。『食後のコーヒーはいかがかな?』 と楽しそうに言うを、コーヒーメーカーの前に立つ、俺より10センチほど小さいを、 後ろから、柔らかく抱きしめてみる。

コーヒーを淹れるコポコポという音。窓の外を通る車の音。時計の針が一定間隔に動く音。春の風がカーテンを揺らす音。

特に耳を澄まさなくても自ずと聴こえてくる音達。その一つ一つに、何とも言えず、ただ耳を澄ます。聴こえるのは、幸音。


「コーヒーが淹れられませんー」
「へぇ・・・困ったね」


そう言うのは口だけで、体も心もから離れようとしない。コーヒーよりも何よりも、だって、愛惜しいから。『全然困ってなさそうね』と言いながら微笑むに、今日、一つだけ、お願いしたい事がある。何故だろう、今まで決して感じた事の無かった、この気持ち。一つだけ、彼女に叶えてほしい事がある。

今日は、俺の誕生日。


、・・・」
「ん?」
「一つ、頼んでもいい?」
「何?」


は、俺の腕の中で向きを変えて、俺の好きな笑顔で、声で、そう言った。

そう、幸せの音。





「・・・おめでとうって言ってよ」





幸音
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