私は、今年の四月に大学に入学したばっかりの、ピカピカの一回生だ。進級するのに必要な単位数を一年間で揃えろというシステムの大学では一年生と呼ばれるが、私の大学は卒業に必要な単位数を卒業までに揃えろというシステムだから、一回生だ。そんなことはどうでもいい。
ところで、世間では五月病五月病と言うけれど、六月病というものはないのか。私のこの症状は時期からして六月病だと思うのだが。いや、本当にそんなことはどうでもいい。要は私の日常が狂ってしまっただけなのだ。 |
事の発端なんて知らない。気付けば眠れなくなっていて、でも眠くて、でも眠れなくて眠らなくて、でも睡魔に敗れて午前五時に眠る。そんなだから遅刻はするし、寝不足だしだるいし、疲れとれないし講義中に寝てしまうしの毎日。で、そんなだからまた夜眠れないし、 眠れないからって何かしているわけでもないし(本当はやらなくてはならないことが沢山あるのに!)、バイト先でも何となくうまくいかなくてノルマ達成できない日々が続いているし、上司さまには軽く怒られるし…って当たり前。その上素敵な出会いもナシ、彼氏もナシ。 早くどうにかしなくてはと思っているけれど、夜になるとまず体が布団の所に行こうとしないし、行っても延々わけもなく携帯をいじっているだけ。一体私は何をやっているんだろう。こんな自分が嫌いで、ちゃんと生活していた四・五月の自分が眩しくて羨ましくて、何とかしたくて、 でもできなくて。結局は何もしようとしていない自分に非があるということぐらい、分かってはいるけれど。憂鬱。 まだ初夏だというのに一人前に真夏みたいな光線を放射する太陽の下、そんなこんなで今日も遅刻だ。原因は、原因不明の不眠症と夜明けとともにやってくるのんびり屋の睡魔。やっぱり今日も朝から自分を嫌いになりながら、気休めにしかならないけれども自転車を精一杯こぐ。 自転車は便利だ。現代社会の煩わしさを具体化したような信号というものを極力無視できるようになっている。よい子は真似せぬやう。 そんな感じで十分弱ほど頑張っていたら、目的とする大学の裏門が見えてきた。そこを抜けて二・三回角を曲がれば、一限目の教室がある建物の前に出る。もう少し。そう思い、左足がペダルを力いっぱい踏み込んで門をくぐりぬけた、その瞬間。 ゴトッ 何とも気の抜けた音を出して、さっきまで私の右足をしっかり保護していたお気に入りのサンダルが地面に落下した。つまり、脱げた。私の右足は今、裸足というわけだ。私は力なくブレーキをかけて、ゆっくりと自転車を止めた。 また、だ。 サンダルはちゃんとアンクルストラップがついているもので、そう簡単には脱げない。でも脱げた。まるで私を足止めするかのように。きっとストラップが壊れたんだろう。サンダルよ、お前の目的は存分に果たされたみたいだ。まあ元々お前の助けを借りずとも、色んな意味で足止めはくらっていたんだけれどもね。 私はもうどうしたらいいか分からなくなって、片足裸足のまま、自転車にまたがったまま身動きが取れなくなってしまった。振り返ることもできない。何でだろう、何がいけないんだろう、どうしてうまくいかないんだろう、どうして眠れないんだろう、どうすればいいんだろう。誰か、教えて。助けて。 私は不覚にも泣きそうになった。でも、ここで泣いたらダメだ。誰かが見ているかもしれない。泣いたら目が腫れてしまうかもしれない。そしたら誰かが気づいて、心配かけてしまうかもしれない。逆に好奇の目で見られるかもしれない。泣いたらダメだ。うまくいかないのは自分のせいだ。 不甲斐無いのも自分のせいだ。私には、泣く資格なんてないのだ。早く、サンダルを取ってこなくては。門のど真ん中にいつまでも置いておくわけにはいかない。早く、サンダル、 「・・・・・・あんたの?」 不幸にも、その低い声は私の耳に届いた。声の主は体を屈めて、ご丁寧に私のサンダルを拾い上げている。振り返れない私の背後で、そんな気配がする。ほっといてくれればいいのに。でも、なんとまあご親切な御方にそんなことは言えない。私はぎゅっと目を閉じて零れそうだった涙を押し込んでから、 その声の主がいる方へと振り返った。 目が、合った。 最初に印象に残ったのは、あでやかな黒の瞳と髪とメガネの縁。日本人に一番よく似合う黒。そして、私の忌々しいサンダルを持つ手、腕、その精巧さ。少し細身、背は高めの猫背。その体を包む、とても気持ちよさそうな綿のシャツと晒のパンツ、裾から覗く茶色いサンダルと心持ち白い足先。 美しい、と思った。 目を逸らせないまま、私は頷く。黒い瞳の彼は、少しだるそうに手に持っている私のサンダルを一瞥すると、自分のショルダーバッグをごそごそして何かを取りだした。そして、サンダルとその取り出した何かを手の中でいじりながら、私の方へと近づいてきた。私は彼の行為の意図が読めないまま、 目を逸らせないまま、なす術もないまま、その光景をボーっと見ていた。彼は私のすぐ傍まで来ると、おもむろにしゃがみ込んで私の右足に手を伸ばした。そっと、彼の綺麗な手が私の足首に触れ、そっと、私の足がサンダルに滑り込む。彼の手が足首から離れ、それを名残惜しいと思う間もなくストラップがかかり、 パチンと金具を留める小さな音がした。それから彼は立ち上がり、だるそうにメガネを指で上げながら言った。心地よい低い声が聴こえる。 「・・・一応留めといたけど、靴屋に行って直してもらいなよ」 よく見れば、どうやらストラップが千切れてしまっていたようで、その一部分に一つ、安全ピンがついていた。彼がごそごそショルダーバッグから取り出していたのは、これだったんだろう。私は何故か、とても嬉しくなって、今更ながらにドキドキして、ついさっきまで忌々しかった壊れたサンダルが急に、 とても素敵なものに思えた。 お礼を言わなくてはと思い、パッと顔をあげると、彼はまさに私に背を向けて去って行くところだった。猫背が少しずつ遠ざかっていく。とにかく少しでも彼を引き留めておきたくて、お礼を言いたくて、私は慌ててその背中に声をかけた。 「あ、あの! ありがとうございます! お名前は・・・」 どさくさに紛れて訊ねた私に彼は振り返り、彼の、よく見ればふっくらした薄い色の唇が動いて、「かきもと、ちくさ」という音が聴こえた。そしてそのまま踵を返し、彼は夏の太陽の下、一人涼しげに去っていく。私は、その後ろ姿から目を逸らせないまま。 突如現れて、すぐに去っていった黒い瞳の彼。白馬には乗っていないし、履かせてくれたのはガラスの靴とは程遠いちんけなサンダルだったけれど、パチンという安全ピンの魔法で私はシンデレラになった。 夏が、始まる。 (憂鬱? そんなのとっくの昔に消えてなくなったのに、気づかなかったの?)
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