「ちくさぁ、でんき、けして」
「・・・・・・・・・・」
「ありがと、」
「うん」
「・・・・・・・・・・・・・・・ちょっと、静かだとこわいね」
「・・・じゃあなんでこんなところ借りたの」
「だって、安かったんだもん」

『家賃が』と言って、は寝返りを打った。そりゃそうだろう、こんな場所。誰もが忘れ去ってしまったようなとても広い荒れた霊園のそばの、同じく忘れ去られようとしている薄暗いアパート。部屋数は全部で7。と、大家の老婆以外、誰も住んでいない。 今日がここに引っ越すまでは、老婆ひとりきりだった。シチリア東岸、シラクサはカッサロ、窓からは暗く遠くの浜辺が見える。


「怖いんじゃ意味ないだろ」
「・・・でも、あの家にいる方が怖いもん」
「・・・・・・・・気の、せいだよ」


俺の言葉が気休めにしかならないことは分かってた。の家、家は、古くからイタリアン・マフィアのファミリーを相手に高利貸しを営んでいる。・モネータと言えば、今やマフィア経済を陰で支える柱の一つだ。 の両親は、いつも人当たりの良さそうな笑顔を浮かべ、子供たちにもとても優しい(という話は、マフィア絡みの人間ならだれでも知っている)(それほど家の知名度は高い)。わがままを言っても、笑顔で『仕方のない子だ』と許してくれる(という話は、から聞いた)。 だけどは知っている。両親が、マフィアを相手に多額の金を巻き上げるときも、いつもと同じ笑顔を浮かべて『仕方のない人たちだ』と吐き捨てているということを(これは、俺も実際見たことがある)。


「それにね、こういうとこのが、人が来なくて好き」
「・・・そう」
「千種がいてくれれば、それでいいよ」
「怖くないの?」
「千種は、高利貸しでもマフィアでもないもん」


一人暮らしをしたいという一人娘に『仕方ない』と言いつつも、ボディーガードとして俺を雇ったのはの両親だ。の身を案じてではない、不本意にしろどこかで誰かの恨みを買っているであろう自分たちに、経由で厄が降りかかるのを防ぐため。はそのことも知っている。 そして、両親に雇われた俺がの監視役になりさがるつもりなど毛頭ないということも。


「そんなの、分からない」
「分かるよ」
「どうして?」
「女のカン」


ふふ・と笑うが、俺は好きで。彼女を見ていると、どうして彼女があの何不自由ない家庭から離れようと思ったかなんて、一目瞭然だった。他人の金で造られたしあわせなど、彼女には必要ないのだ。変化のない笑顔など、彼女には。

               
降水量の少ないシチリアの夏。街は乾燥していて、どこか煙たい。思い出したように俺がむせると、は『大丈夫?』と言った。昼間の日照りを思えば、夜の間はとても快適だ。日本みたいに蒸し暑くない。寝苦しくもない。とても、至極、快適。 でも、だからこそ俺は、夏が大嫌いだった。湿気がなく、夜はとても澄んでいて、おかげで、叫び声や血なまぐさい香りがよく徹る。脂汗が冷えて、体温が下がる。とても朗らかな、シチリアの夏の夜。窓の外、星は多い。


別にが大切だとか、愛しいとか、そんな感情はない。だけど、理由もなく、今年の夏だけはのおかげで救われそうな気がするんだ。響く音も、漂う臭いも、泡立つ肌も、忘れられそうな気がするんだ。がいるたった2時間弱の夜を過ごしただけで、そう思ったんだ。


「千種」
「・・・なに、」
「いつかえっても、いいんだよ」


と俺が出会ったのは今朝の事で、は俺の素性を知らないままで、なのに偉そうに俺のことを千種千種呼び捨てて、俺は満更でもなくて、だけど所詮は俺を知らなくて、真っ暗な部屋の中に女と男がふたりきりで、そんな状況でが警戒しないわけがない。 俺もそこまで頭が回らないわけじゃない。真っ暗で何も見えないけど、は俺に背を向けて、懸命に睡魔と格闘している、きっと。


「・・・・・・うん、分かってる」
「うん、ならいいの」
「怖くないの?」
「だいじょうぶ、」
「そう・・・」


        
いっそ組み敷いて、見えないところに消えない傷をつけてやろうかなんて、ふとそんな考えがよぎったけど、“いっそ”の意味が分からないから脳内から消した。とはこれからしばらく、いつまでかは分からないけど、とにかく一緒に過ごすだろう。それだけで十分だ。


「ね、ちくさ、・・・」
「なに」
「・・・・・・・・・」


返事の代わりに寝息が聞こえて、が眠ったと知った。俺は途端にひどく疲れて、俺も眠りたい・と思った。どうしようか、今ここで眠るべきだろうか。明日の朝、がもし俺よりも先に起きたら、自分のそばで眠る俺をどういう目で見るだろうか。その目を勝手に想像して、俺は、やっぱり帰ることにした。

救われるなんて、勘違いだ。忘れるなんて、無理だ。彼女もそうだ。逃げられるなんて妄想だ、きっと。だけどそれでも、彼女の名前を呼びたいと思うのはなぜだろう。窓の外、心なしかさっきよりも星の数が減っているように感じた。

重い体を無理やり動かして、なけなしの荷物をまとめて、の部屋のドアノブに手をかけながら、ぼんやりと思う。いっそ、そうだ、猫なら。せめて、夜の間だけでも猫なら、の隣で眠ることも許されたかもしれない。


「・・・おやすみ、



スピッツ:猫になりたい