窓から差し込む眩しい朝焼けに誘われて、俺は目を覚ました。朦朧とした意識の中、小鳥のさえずりだけが響く。だんだんと視界が冴えてくる頃、俺はいつも、左を向く。何故かって、それは、大切な存在があるから。

俺より先に目を覚ました事が無い、。今日も、その長い睫毛はまだ、頬に影を落として。少し微笑んだ表情、至極幸せそうな雰囲気、その瞼の裏で、はどんな夢を見ているのだろう。まだ幼さの残るあどけない寝顔に、声にしないまま、そっと尋ねる。きっと俺は今、自分でも気持ち悪いぐらい安らかな表情だろう。今まではこんな表情など出来やしなかった。それもこれも全て、と出逢ったから。

指先に温もりを感じて、はっと気付く。無意識のうちに動く手、指先が、に触れたいと主張する。その頬に、瞼に、唇に、髪に、乳房に、触れたいと、訴える。抑え切れない愛惜しさを、具現化する。でも、触れてはいけない。触れたら絶対止まらなくなる。こんな朝っぱらから盛るのは、俺としても少し気が引ける。

その代りに俺は、この気持ちを、この愛惜しさを、別のかたちにしてちゃんとに届けなければならない。まあ言ってしまえば盛るのもお互いに問題はないけど、俺が欲しいのは、俺がに与えたいのは、そんな一時の快楽や満足感じゃない。だから、これが俺の、今一番の何よりも大事な課題。


「・・・ちく・・・・、さ・・・・・・・」


起きる気配の無いの口から、俺の名前が紡がれて、俺は一瞬、心臓を誰かに掴まれた気分がした。早鐘のように、音が聞こえる。そんな声で俺の名前を呼ばないでくれ。そんなに幸せそうな顔をしないでくれ。俺まで、幸せになってしまう。





呼んでみる。決して声には出さずに。

その、瞼の後ろに展開している夢に、俺は存在しているのだろうか。そこに、青空は広がっているのだろうか。俺はただ、その青空が何処までも続くように、その夢が途切れる事の無いように、ずっと、そっと、見守っているから。 本物の俺が恋しくなった時に、目を覚まして戻って来てくれればいい。その瞳に、俺の姿を写してくれればいい。

それまでずっと、傍にいる。そうする事で、救われるから。





「・・・おはよう」


そっと目を開いた、に声をかける。


「あー・・・また千種のが早起きんなっちゃった・・・・・・」


今日の第一声も、いつも通り。俺が先に起きているのが悔しいらしい。


「目が覚めたらが寝てるんだから、俺は悪くない」


俺がそう言えば、の眉間にちょっと皺が寄って、


「アタシも千種の寝顔見たいのにな」


と、零す。そして


「おはよ、千種」


この瞬間が、たまらなく好きで。

だから、が目覚める時、そこに、俺がいる。そんな生活が、いつまでもいつまでも続く事を願う。俺の夢には常に、が存在している。だから、その夢を叶えたいと思う事は、とても必然的で。それだけに留まらず、もし、の夢に俺が存在するのだとすれば、その夢が終わることのないように、決して俺の存在が消え去らないように、俺がその夢を叶えていきたいと思う。守り抜いていきたいと、思う。

そうする事で俺は強くなれるんだ・と、今までの出来事で、嫌と言うほどに実感してきた。










に出逢ったのは、俺が日本に来てすぐのこと。骸様と犬がランキング星の子どもを捕まえに行っていて、たまたま一人きりだった放課後、薄暗い学校の廊下でうずくまっていたに俺が声をかけたのがきっかけだった。


「・・・・どうしたの」


その声に驚いたのか、は勢いよく振り返って、その結果、あたかもそうなる事に決まっていたかのように


ゴッ


引き寄せられるかのごとく、額どうしがぶつかった。の方も相当痛かったらしく、再びうずくまってしまった。


「(痛い・・・)・・・大丈夫、?」


俺がそう言うと、今度はゆっくり、顔を上げた。目が、合う。の顔は、見る見るうちに真っ青になっていった。


「す、すいませんでしたっ!」


半ば叫びながら、腰からお辞儀をする。そうだ、そういえば俺達は一応ここらの不良の頂点ってことになってるんだったけなんて、他人事のように思い出した俺を他所に、『大丈夫ですか?』だとか『救急車呼びますか?』だとか、終いには『アタシほんと石頭なんですごめんなさい・・・』なんて言い出す始末で。 その慌てっぷりなんか、それはもう見ているだけで変で馬鹿らしくて意味不明で面白くて。俺は図らずも少し、ほんの少しだけ、笑った。











殺風景の中に憎しみとくだらないプライドが渦巻く施設で育った所以、普通とは違った精神構造を持ち合わせているだろう俺も、骸様と出会ってからは“面白い”という感情も理解できるようになった。そして、誰かを気遣う心も、とても狭い範囲でしかなかったけど、一応持てるようになった。 それは俺にとって、とても大きな進歩で。産業革命なんかより、世界大戦なんかよりもずっと、ずっと重要なことだった。


でも、それすら、彼女の前では色褪せる。うっすらと色づき始めたと思っていた世界も、実はただ単に返り血の色で染まっていただけだった。そのことに気づいたのは、が世界を極彩色でいろどり始めてからのこと。決して俺を侵食することもなく、しかし遠慮をすることもなく、ただ彼女は目の前のキャンバスに絵を描くように、そこに在った。そして今も、俺の前で描き続けている。

どうして廊下でうずくまっている見たこともない怪しい奴に声をかけたのか、あの時の俺には分からなかった。でも今は、少しだけなんとなく分かる。おそらく、削ぎ落とされた世界の色を彼女はきっと取り戻してくれると、心のどこかで知ってたんだろう。そして俺は、もう一度あの世界に戻りたかったのかもしれない。 要らないと捨てたはずの世界、生まれたその一瞬の間にだけ見えた、燦然と輝く鮮やかな世界に。

人の心は、俺が思っていたよりも弱くなかった。こう言えば大げさ過ぎるかもしれないけど、俺は乗り越える事が出来た。まだ完全ではないかもしれないけど、戻ってくることができた。という人物と、出逢った事で。

今は、この溢れ出る気持ちを、伝えたくて。


「千種」


そう言って、微笑みかけるに、心からの愛惜しさと、俺が感じる全ての幸福を込めて。でも、愛してるなんて言葉はまだまだ恥ずかしいから、死にそうなぐらいに好きだという事が伝わるように。





今日も俺は、その名前を呼ぶ。





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