最後に屋敷の門の鍵を閉め、俺の今日の役目は終わった。ひとつ、小さく溜め息を吐き、空を見上げる。雲がかかって、月はおぼろげに光っている。星はない。明日は雨だろうか、そんなことを思いながら屋敷へ向かう途中、ふと、お嬢様の部屋の窓に目がいった。灯りは点いていない。寝ているんだろう。

そこで、またひとつ、今度は苦し紛れの大きな溜め息が出た。幸せが逃げるわと、微笑みながら言ったお嬢様を思い出す。人の気も知らないで。





仕えるのには慣れていた。俺は生涯仕える運命なのかと疑うほどに。生まれてから物心がしっかりつく頃までは汚い大人のご機嫌をとってきたし、それを打破してくれた骸様には一生仕えても仕えきれないぐらいだし、ボンゴレにも、なんだかんだ言って世話を焼いてしまってる。 世話を焼いてもらってもいるから、この場合は仕方ないか。何にせよ、仕えるということが俺の生活パターンの一部であることは間違いない。少し不本意だけど。

なのに、この感情は何だ。俺は屋敷に雇われた執事であり、相手は仕えるべき存在である家のお嬢様だというのに、この気持ちは何だ。

お嬢様のお側にいなくてはいけないんじゃない、彼女の側にいたい。お嬢様のご機嫌をとらなくてはいけないんじゃない、彼女に笑ってほしい。お嬢様のお世話をしなければいけないんじゃない、彼女に触れていたい。お嬢様のお気に入りにならなくてはいけないんじゃない、彼女に好かれたい。


お嬢様にとっての執事じゃ物足りない、彼女にとっての特別になりたい。


いつからか、こんなことばかりが頭の中をぐるぐる駆け巡るようになった。そんなことは為し得ない、そう為ってはいけないと理性が叫ぶのも虚しく、俺の中で想いは日に日に膨らんでいく。膨らみすぎて、そろそろ俺がパチンとはじけてしまいそうだ。だけど、屋敷の執事に支給されているユニフォームがそれを許さない。 どんなに膨らんでも、ユニフォームの抑圧にはかなわない。だから、本来ユニフォームの外に膨らんで軽減されるはずだった圧力がすべて俺の心にかかって、逆に俺の心は押しつぶされるように苦しかった。押しつぶすならいっそこの気持ちごと、と思うけど、それすら許されない。蛇の生殺しよりもタチが悪い。

だけど、ひとつだけ、この窮屈なユニフォームにも利点があった。それは、お嬢様や旦那様、奥様をはじめとする、この屋敷に住まう者全てに迷惑をかけるだろうこの気持ちを、無理やりでも押し込めてくれるという点。 そのお陰で、俺は今日もお嬢様のお側にいることができる。





屋敷の住人が寝静まったあと、俺たち執事は役目を終えた順に風呂へ入り、就寝する。今日は俺が屋敷の外回りの鍵当番だったから、風呂に入るのも最後だった。風呂から上がった俺は浴室の掃除をし、それから、一階から順に屋敷全体の戸締りと消灯を確認しつつ、自分の部屋へ向かった。 (執事たちにあてがわれた部屋は、こういう確認作業がやりやすいように屋敷最上階の最奥にある。)どの部屋もおそらく他の執事が点検したんだろう、戸締りも消灯もちゃんとされていた。

しかし、最上階へ上がる階段を上ってすぐの部屋(つまり、お嬢様の部屋)のドアの隙間から細く光が洩れているのを見つけて、俺は立ち止まらざるを得なくなる。おかしい、さっき庭から見た時は灯りなどついていなかったのに。お嬢様がまだ起きているのだろうか。確か明日は朝早くからどこぞのお屋敷で催し物があって、 お嬢様もそれに出席することになってたから、こんな時間に起きていたら体に障るだろう。お嬢様の生活管理も、俺たちは旦那様から任されている。執事として、そこはちゃんと役目を果たさなくてはいけない。

そんな事務的なことを思いながら、コンコンと二回、ドアをノックした。が、返事がない。もう一度ノックをし、『お嬢様、柿本でございます』と声をかけてもみたが、無反応。しかし、ドアの隙間からは相変わらず光が洩れている。灯りをつけたまま寝てしまっているのだろうか。それとも無視を決め込んでいるのだろうか。 暫くどうすべきか思案したあげく、どっちにしろ戸締りと消灯は確認しなければならないし、お嬢様にも早めの就寝を促さないといけないので、不躾だが勝手に入らせてもらうことにした。『勝手で申し訳ありませんが、失礼いたします』と声をかけ、ドアを少し開ける。鍵はかかっていなかった。不用心にもほどがある。 しかも、それでも部屋の中は静まり返ったまま。仕方ないのでドアを開けて中に入った。見れば、ドアの両隣りについている電燈に灯りが点いている。それ以外は真っ暗だ。


「あら、千種?」


ふとバルコニーの方から声が聴こえて、驚いてそっちを見れば、月明かりと部屋の灯りでぼんやりとお嬢様の姿が確認できた。


「・・・申し訳ありません、お嬢様。ノックしましてもお返事がございませんでしたので」
「まあご免なさい、少し考え事をしてたものだから・・・聞こえなかったみたいね」


そう言って、お嬢様は申し訳なさそうに微笑んだ。この御方は自分の非を決して他人の所為にしない。俺は考え事が非だとは思わないが、それでも俺に、執事に対して謝ることすら自然にやってのける。彼女のそんな素朴さが、とても美しいと思う。


「考え事・・・ですか」
「ええ、考え事」
「こんな時間に、何をお考えになっておられたんですか。夜更かしと夜風はお体に障ります」


よく見れば、彼女はネグリジェに薄手のカーディガンを羽織っているだけだった。それでは、この季節の夜間の冷えはしのげない。ドレッサーの椅子にかけてあったブランケットを手にとって、俺は彼女に近づいた。


「千種のことをね、考えていたの」


その華奢な肩にブランケットをかける俺を見ながら、彼女は言った。その台詞に、俺の動きが一瞬止まる。それを見た彼女が、くすくすと笑った。今、何を言ったんだ、この人は。


「・・・・・・お嬢様、お戯れを」


そう言いながら、俺はある想いが俺の中で膨らんでいくのを感じていた。そして気づく。ユニフォームは、浴場のクリーニング用の衣類籠の中へ置いてきてしまった。膨れ上がる想いに気づかれないように、彼女から距離をとって、背を向ける。今ここではじける訳にはいかない。


「あら、嘘じゃないわ。私いつもあなたが気になって仕方ないの。今日もね、あなたが外回りの当番だって聞いたから、私、ここからこっそり見てたのよ。そしたら帰り際、あなたがこっちを見て、私こっそり見ていたのがばれてしまったのかと思って、とてもドキドキしたわ」


彼女の紡ぐ一字一句が、俺の心臓をわしづかみにする。妨げとなっていたはずのユニフォームはないのに、こんなに心苦しいのは何故だ。


「だけど、いつまでたってもドキドキが止まないから、何故かしらって考えてたの。でもひとりじゃ分からなくて、だからあなたの顔を見れば分かるかしらと思って、灯りをつけてあなたを待ってたの。そしたら、あなたは来てくれた」


こっちを向けとでも言うように、彼女の両手が俺の右手を包んで、弱く引っ張る。失礼だとは思ったが、今の俺にはできない相談だった。お嬢様を“彼女”として見てしまう、今の俺には。彼女は何故こんな事を言うんだ。俺は執事で、彼女はお嬢様だというのに。理性の叫びがこだまして、煩い。


「それでね、あなたの顔を見て分かったの。あなたにばれてドキドキしていたんじゃなくて、あなたがあの暗闇の中で私を見てくれた気がして、嬉しくてドキドキしていたんだって」
「・・・お嬢様、明日は朝早うございます。もうお休みください」
「お嬢様だなんて言わないで、柿本」


早くこの場から逃げ出したくて吐いた言葉も、彼女の一言でどこかへ飛ばされてしまった。俺だってお嬢様なんて言いたくはないけど、ユニフォームもない今、これが俺の最後の砦だということは明らかで。なのに彼女は無情にも、それを言うなと言う。 彼女の願いなど、俺が聞き入れない訳がないのに。





「私、執事としてではなくて、あなたのことが好きみたいなの」





危ない、はじける。そう思った時には遅かった。理性が本能に追い付く前に、彼女に掴まれている右手をぐっと引き寄せ、バランスを崩して寄り掛かってきた彼女を腕の中に閉じ込める。小さな彼女は、無駄に長い俺の腕にすっぽりと収まった。秋虫の鳴く声が響いている。冷たい夜風がカーテンを揺らしている。 ずっと触れたかった存在が、こんなに近くにある。やわらかく香る彼女の髪の匂いに痺れて働かなくなった脳みその片隅で、俺は、ぼんやりと思った。




もうここには
(良いのですか)(なあに?)
(俺はもう執事という立場に留まっている気はありません)(どういうこと?)
(俺も、ただの男だということです)(・・・奇遇ね、私もただの女なの)

とどまれない