「俺ァ、アンタが一番欲しい」


深夜、男ばかりが酒の勢いに任せて酔狂するその喧騒の中、彼は私の耳元でそう言った。




Altair




彼はそのまま私の手を牽いて、本日の主役だというのに堂々と大宴会場から抜け出した。飲んで飲まれた男たちは、勿論それに気づかない。そして当の私は何が起こっているのか分からない。目の前を行くのは、柴染色の髪。


「沖田さん、」
「・・・・・・」
「一体、どこへ行くんですか」
「・・・黙ってついて来なせェ、もうすぐ着きまさァ」


その言葉通り、彼は直に立ち止まった。月明かりが彼の背を照らし、どこか、幻想的な雰囲気を醸し出す。というより、そもそもこれは幻想なんじゃないか・と思う。つい先刻、吐息とともに囁かれた台詞。遠くに聴こえる宴会の音。左手首を掴む、少し冷たい想い人の手。立ち止まった此処は、彼の部屋の前。 今日はお酒を飲んでいないはずなのに、酔いがまわって好からぬ幻想でもみているんだろうか。それとも、昨日忍んで短冊に書いた願い事を、誰かが聞き入れてくれたのだろうか。頭がふわふわする。

部屋の中はひどく簡素で、思ったより片付いていて、これが男の人の部屋か・なんて呑気なことを考えている自分がいる。その傍らで、どうして彼は私を此処に連れてきたんだろう、どうして二人きりなんだろう、どうしてあんなことを言ったんだろう、どうして今彼は私を抱きしめているんだろう・ なんて必死で考えている自分もいる。私が考えたところで分るようなことではないけれど。彼の匂いが、鼻腔をくすぐる。


「沖田さ、ん」
「どうしやした、さん」
「・・・どうして」
「此処へ連れてきたか、ですかィ?」


至極楽しそうにそう言って、彼は私から少し体を離した。部屋の灯りもつけないままなのに、彼の顔はよく見える。そこには悪戯な、それでいて優しい目の人がいた。私は今まで、彼のこんな目を見たことがない。読めない目をして飄々としている姿か、爛々とした目をして稽古をしている姿か、 凍てつくような目をして真剣を振り回している姿しか。私は驚いて、心拍数が跳ね上がったのに気付いて、ひどく恥ずかしくなって苦しくなって、彼から目を逸らした。

ふわふわ、する。


「そりゃあ、アンタを捕って喰うために決まってまさァ」


その言葉が終らないうちに、私は一瞬宙に浮いて、それからゆっくりと倒れた。最初は何が起こったか訳も分からず、ふわふわしていたから馬鹿みたいにそのまま倒れてしまったのかと思った。けれども、頭の後ろに支えるように回された腕と、未だかつてないほど近くに感じる彼の嬉しそうな顔と、 その向こう側にぼんやり見える天井、そして、背中に感じる綿の感触が。


「・・・お、おきたさ」
さん、アンタが俺に惚れてんのは知ってやすぜ。で、今からアンタにも、俺がどれだけアンタに惚れてるかってのを知ってもらいやす」


彼のもう片方の手が浴衣の上から私の腰に触れ、それから体の輪郭をなぞるように動いてゆく。私は恥ずかしくて恥ずかしくて、なのに今、彼の悪戯な目は私の目を捕らえたまま。彼の手はゆっくりと私の頬までやってきて、止まった。


「ずっと見てましたぜ、アンタのこと。癪だからあんまり言いたくねェんですがねィ、一目惚れってやつみたいでさァ。アンタが此処で働き始めてからのこの一年、俺ァ何度自分が気を違えたと思ったか知らねェ。遊郭行っても・・・あ、別に好んで行ってた訳じゃねェですぜ、他の連中が付き合えって言うもんで。 でも、それまでは遊べてたもんで遊べなくなっちまった。いざ事を運ぼうとすりゃあ、頭の隅っこでアンタが笑うんでィ。それで結局手も出せねェ。ホント、それまでの自分からは考えられねェくらい情けない話でさァ。しかもアンタの前じゃどうにも居た堪れやせんしねィ。 そのくせ本能はアンタに触れたいって叫びやがる」


何を言ってるのか分からない。わかるんだけど、わからない。私はきっと酒の匂いに酔って、都合の良い夢でも見ているんだろう。でなければこんなに近くに彼が居る訳がない。こんな台詞を聞ける訳がない。こんなに悪戯で楽しそうで、それなのに真剣な目を見れる訳がない。 こんなに嬉しいことなんてない。うっかり気を抜いて現実だと思ってしまったら最後、私は夢から覚めるのだろう。(厭だ、夢だと思ってあげるから、どうか覚めないで)


「・・・今夜は酒も入って気分が良い。月も奇麗に出てらァ。俺も狼男の類かねェ、そろそろ理性が本能の手中に堕ちそうでさァ。でもさん、これだけは覚えといてくだせェ。俺ァ、今夜のことを酒の勢いや一夜の過ちって言葉で片付ける気なんざ更々ありやせん。 アンタに心底惚れてる。好きなんでさァ。・・・・・・だから、」


瞬間、今までも十分近かった彼の顔がもっと近づいて、唇どうしが触れ合った。それはあまりにも鮮明な感覚で、私はついに、これが現実であることを知った。(嗚呼、夢から覚める)




「今から俺に抱かれてくれやせんかねィ」




夢から覚めた私を待っていたのは、夢にまで見た現実。


(一年間、それはもう頑張って我慢した彦星の独白)